「それじゃあまずは、こっちの子からね」
新田が、私を見ながら言う。
畑川に手綱を引かれながら、スタート地点へと進む。
観客席の声援。
今までのレースではなかったことだ。
ヒトとしてではなく。
あくまで競走馬として、見られている。
存在している。
ただ、彼女たちを楽しませる存在として。
賭けの対象として。
人権はない。
堕ちたのだ。
これまで、感じたことがないようなミジメさ。
それだけではない。
充足感。
私がずっと求めていたもの。
それとは別に、もうひとつ、これまでと違う点があった。
畑川の態度。
背筋はピンと伸び、表情は余裕に満ちていた。
堂々とした所作。
騎手としての威厳、気品があった。
目が合った。
物怖じしない、力強い視線。
心臓が跳ねる。
思わず目を伏せてしまった。
畑川のクセに…
心の中で毒づきつつ、気持ちを鎮める。
おそらく、1年生たちを前にして張り切っているのだろう。
畑川が跨る。
背中に体重がかかる。
心臓の音。
鎮まってよ…
相手は畑川なのよ…
自分に言い聞かせる。
しかし気持ちとは裏腹に、鼓動は更に存在感を増していく。
スタートの合図。
反動的に、私は飛び出した。
いつものように走る。
ただそれだけに集中する。
観客たちの声援。
次第に、遠いものになっていく。
浜本と、鳥越。
今、私を見ながら、何を考えているだろう。
三井。
もし参加していたら、ふたりの前でどんな態度をとっていただろう。
畑川。
さっきの態度、ナマイキだったな。
様々な思考が浮かんでは、流れ去っていく。
コースの半分を過ぎ、観客席へと近づいていく。
ふたりの顔。
よく見えた。
相変わらずはしゃいでいる浜本。
一方、鳥越は真剣な表情で私に声援を送っていた。
視線を戻す。
進む先に、黒いビニールテープが見えた。
その近くには…
新田が足を組みながらイスに座っている。
その横には、藤崎。
よつんばいの姿勢で、じっとこちらを見ている。
前回レース時のオーラをまとっていた彼女とは、まるで別人だった。
処刑を待つ罪人。
出荷前の家畜。
それは、言いすぎか。
しかし彼女の心中としては、それに近いものがあるのかもしれない。
2周目。
ラップタイムは30秒。
前回より少し遅い。
罰ゲームが掛かっていなければ、こんなものか。
ふと、そんな考えが頭をよぎる。
慌てて、振り払う。
全力。
競走馬としての意地を見せてやる。
誰に向けての意地、なのか。
藤崎か、観客のふたりか。
新田、畑川。
分からない。
この程度でじゅうぶんと考えていた自分自身に対して、かもしれない。
もうじき、2周目も終わる。
私の熱が伝わったのか、観客席も盛り上がっていた。
関係ない。
私は私のできるかぎりのことをする。
それだけ。
藤崎。
目の端で捉える。
でも、見ようとは思わなかった。
見せつける。
馬としての、格の違いを。
黒いビニールテープを過ぎる。
ちなみに今回のレースは、5周ではなく、3周で終わりだった。
初めてレースに参加する藤崎に配慮してのことだ。
ラップタイムは、27秒。
前回レースより、少し早いペース。
喜びかけた自分を鼻で嗤う。
だって、今回は3周でいいのだから。
ペース配分を考えなくていい分、早くなるのは当然だった。
ラスト半周。
スパートをかける。
タイムなど、どうでもいい。
ただ、力を出し切りたかった。
目に入るのは、黒いビニールテープ。
そこをめがけて、両手両足を動かし続ける。
そして…
新田がタイムを読み上げる。
頭に入らない。
どうでもよかった。
荒い息づかい。
自分の呼吸。
全力を出し切った、という達成感よりも。
1周目をいい加減な気持ちで走ってしまったという後悔が強い。
「お疲れ」
新田が、出迎える。
「頑張ったじゃん」
手で、頭をポンポンと撫でられた。
それだけで、さっきまでわだかまっていた何かがスッと消え去ってしまう。
なんて単純なヤツ。
自嘲するが、嫌な気持ちはしなかった。
観客席からは、熱い声。
「すごいじゃん。思ってたより見ごたえがあって、ビックリしたよ」
浜本が、私を見ていた。
「うん、確かに。なんか、途中からギアが入ったみたいになってさ」
鳥越。
さっきよりも夢中になっているように見える。
「あーあ、私もこっちに賭ければよかったかなぁ。キミ、負けたら承知しないからね」
浜本が、もう一方のポニーに話しかける。
それが藤崎であるとも知らず。
藤崎も、そんな後輩たちの無礼を責めることはできない。
どんなに悔しくても、競走馬になりきるしかないのだ。
そして…
次は、藤崎の番だった。
畑川に手綱を引かれながら、スタート地点へと這っていく。
ただ。
スタート地点にたどり着いた藤崎は、あいかわらずオドオドしていた。
そんな藤崎とは対照的な畑川。
まるで、ドミナントだった。
「なんかさ、畑川先輩カッコよくない?」
浜本の声。
「うん。私も思った」
鳥越も同意する。
「ね。あんな表情するんだ…」
1年生たちの中で、畑川の評価が上がっていく。
その一方で…
「おーい、新人ポニー、しっかりしなよ!」
憐れにも、ヤジをとばされる藤崎。
同じ2年生同士のふたり。
それが、ほんのちょっとしたきっかけで、こうも変わってしまうのか。
畑川が馬に跨る。
少しの間があってから。
スタートの合図。
馬。
手と足を必死に動かしながら、前へと進む。
がむしゃらに、といえば聞こえはいいかもしれない。
また、今回がデビュー戦というのもある。
ただ、あまりにも必死すぎた。
一生懸命なのだが、それがかえって滑稽に見えてしまう。
コースの半分を過ぎ。
やがて、観客席の前を通り過ぎる。
手足をジタバタと動かしながら、観客席をチラっと見上げる藤崎。
そんな彼女に対し、1年生たちは笑いながらヤジをとばす。
あわてて視線をそらす藤崎。
そのまま2周目へと突入する。
ラップタイムは29秒。
私の1周目より、ほんの少し早い。
「おお…」
「意外とやるじゃん、新人」
ただ、私はこの後からペースを上げた。
一方、藤崎は最初から全力を出しているように見える。
今のスピードを維持できるかどうか。
ペース配分をつかみにくいのは、デビュー戦である彼女のハンデだった。
本来、そのサポートをするのが騎手の役目でもあるのだが…
畑川に、その意思はないようだった。
あいかわらず、ジタバタと手足を動かしながら進む。
ペースは落ちていない。
でも、早くなってもいない。
少し、ほんの少しだけ、疲れが見え始めた。
息づかい。
少し苦しそうだった。
それに気付いたのか。
「新人、頑張れー」
浜本の声援。
半分を過ぎ、こちらに近づいてくる。
やはり、疲れが見えていた。
黄色い声援と、ヤジを全身に受ける藤崎。
そして、3周目へ。
ラップタイムは27秒5。
私の2周目と、ほぼ同じ。
と。
それまで、ただ馬に乗っていた畑川。
突然、右手を振り上げた。
そして…
パァン!
思い切り、馬の尻を叩いた。
さっきまで騒いでいた観客が、静まり返った。
「ほら、ペース落ちてるぞ!しっかりしな、新人!」
パァン!
再び、尻を叩く畑川。
だらしない馬を叱咤するように。
言葉で、手のひらで、馬をはやし立てる騎手。
馬がペースを上げる。
雰囲気に飲まれた1年生たちは、まだ声を出せずにいた。
呻き声。
藤崎か。
全頭マスクで隠れてはいるが、おそらく歯を食いしばりながら、耐えている。
パァン!
子気味よい音。
藤崎のくぐもった声。
彼女の性癖。
強い言葉を投げかけられること。
そして、鞭。
畑川も、知っているはず。
知っていて、それでなお、責めているのか。
藤崎は、今ので完全にスイッチが入ってしまったはず。
「ほらほらほらほら!あともう少し!根性見せてみな!」
言いながら、手のひらでお尻をペチペチと軽く叩く畑川。
その口元には、うっすらと笑みが浮かんでいるようにも見える。
私の知らない畑川がそこにいた。
全頭マスクからのぞく、藤崎の目。
必死に堪えていた。
息苦しさ。
いや、それだけか。
正体を隠している、とはいえ。
後輩たちの前で、これ以上ブザマな姿を晒さないように。
ギリギリのところで、踏みとどまっている。
溢れそうになるなにかを、必死にこぼさないように。
後輩たちの見ている前で、ブルブルと体を震わせるのは、ゾッとするほど滑稽で、屈辱で、惨めだろう。
ゴールまで、あと5m。
4…
3…
2…
細川が、右手を振り上げた。
そして…
残り1mのところで、思い切り振り下ろす。
パァン!
黒いビニールテープを通り過ぎる、馬。
両腕を、突っ張りながら。
畑川を乗せたまま。
体を硬直させる。
押し殺した声。
観客席からは、少し離れている。
おそらく、1年生のふたりは気付いていない。
しかし…
ここからは、はっきりと見えた。
目を固く閉じ、全身を硬直させたまま。
体を震わせる、馬。
走り終えたゴホウビか。
あるいは、情けない走りをした罰か。
以前、新田によって刻まれた回路に。
再び、強烈な快楽が流れる。
負け犬としての、マゾヒストとしての烙印。
一生消えることのない痕が、畑川によって、更に深く刻まれていく。
彼女の脳、体に。
馬としてヒトを乗せ、観客の前でイク存在だということ。
ヒトに詰られ、お尻を叩かれると、自分がどうなってしまうのか。
どれだけ否定しても、消えない。
強烈な屈辱とともに脳が焼き切れていく快感。
一度知ってしまったら、もう逃げられない。
騎手への復帰は絶望的だろう。
次回のレース、彼女は馬として参加する。
いや、それ以降もずっと。
新田に命令されるからではない。
本人の強い希望。
表面上は、どれだけ取り繕えたとしても。
中身はもう、被虐的な願望を持つ、一頭の馬でしかないのだ。
ドミナントとして、この会を支配しようとしていた藤崎。
事実、その資質は持っていたのかもしれない。
ただ、取って代わるはずだった新田に、キバを抜かれ。
家畜として飼いならされてしまった。
かつての獣も、今はご主人様に尻尾を振る、忠実な下僕だった。
畑川に手綱を引かれながら、スタート地点へと向かう藤崎。
レース前と違うのは、その横に鳥越もいるという点。
浜本との賭けに勝った彼女は、この後、ポニーに乗ってコースを一周できるのだ。
笑みを浮かべている鳥越。
ここに来たばかりの時とは違い、すっかり楽しんでいる様子だった。
黒いビニールテープの前。
「ほら、ポニーにまたがりな、鳥越」
「はい」
緊張と、それ以上の好奇心と。
馬の肩に手を置き、ゆっくりと足を上げる鳥越。
「うわぁ、乗っちゃったぁ」
おそらく、彼女にとって初めての体験。
子どもの頃、遊びとしてお馬さんゴッコをしたことはあっただろう。
しかし、成人後、しかも馬は同年代の女性なのだ。
「いいなあ」
浜本が心底羨ましそうに見ていた。
一方、藤崎。
正体がバレないよう、気が気ではないはず。
ただじっと、床を見つめていた。
「ほら行くよ、ポニーちゃん。ぼさっとしてないで、前に進みな」
畑川の言葉に、あわてて進み始めるポニー。
ゆっくりと、一歩ずつ。
早く終えたくても、スピードを上げることは許されない。
畑川に叱られ、尻を叩かれてしまうからだ。
後輩たちの前で、情けなく。
痛みよりも、それ以上の羞恥心に苛まれることになる。
まして、つい先ほどのレース。
ゴール直前で畑川に尻を叩かれ、体を震わせていた藤崎。
今もその余韻は熾火となって、彼女の中で燻っているはずだった。
幸い、1年生のふたりは気付いていなかったが。
鳥越を背に乗せた状態で再びイッてしまったら、誤魔化しようはなかった。
折り返し地点。
さすが馬術部員というべきか。
鳥越は完全に乗りこなしていた。
乗りながら、馬の頭を撫でたり、こちらを向いてピースをしたりしている。
生き生きとした表情。
彼女がこの状況をいかに楽しんでいるかを物語っていた。
と。
馬の頭を撫でようとした鳥越が、おや?という表情をした。
馬の髪をかき分け、首元を注視する。
鳥越が、目を見開いた。
そして、馬の耳元で何かを語りかける。
突然。
馬が立ち止まった。
慌てた畑川が手綱を引っ張るが、動かない。
鳥越。
再び、馬の耳元に口を寄せる。
馬が、首を左右に振る。
そんな馬の様子を見て、鳥越が口元に笑みを浮かべた。
おもむろに、右手を振りかぶる。
そして…
パァン!
室内に、乾いた音が響き渡った。


コメント