ポニーガールとご主人様 第四章(13)先輩たちの蹄音。手綱と嘲笑と

「それじゃあまずは、こっちの子からね」
新田が、私を見ながら言う。

畑川に手綱を引かれながら、スタート地点へと進む。

観客席の声援。
今までのレースではなかったことだ。

ヒトとしてではなく。
あくまで競走馬として、見られている。
存在している。
ただ、彼女たちを楽しませる存在として。
賭けの対象として。

人権はない。
堕ちたのだ。
これまで、感じたことがないようなミジメさ。
それだけではない。
充足感。
私がずっと求めていたもの。

それとは別に、もうひとつ、これまでと違う点があった。
畑川の態度。
背筋はピンと伸び、表情は余裕に満ちていた。
堂々とした所作。
騎手としての威厳、気品があった。
目が合った。
物怖じしない、力強い視線。
心臓が跳ねる。
思わず目を伏せてしまった。

畑川のクセに…
心の中で毒づきつつ、気持ちを鎮める。
おそらく、1年生たちを前にして張り切っているのだろう。
畑川が跨る。
背中に体重がかかる。

心臓の音。
鎮まってよ…
相手は畑川なのよ…
自分に言い聞かせる。
しかし気持ちとは裏腹に、鼓動は更に存在感を増していく。

スタートの合図。
反動的に、私は飛び出した。

いつものように走る。
ただそれだけに集中する。
観客たちの声援。
次第に、遠いものになっていく。

浜本と、鳥越。
今、私を見ながら、何を考えているだろう。
三井。
もし参加していたら、ふたりの前でどんな態度をとっていただろう。
畑川。
さっきの態度、ナマイキだったな。

様々な思考が浮かんでは、流れ去っていく。

コースの半分を過ぎ、観客席へと近づいていく。
ふたりの顔。
よく見えた。
相変わらずはしゃいでいる浜本。
一方、鳥越は真剣な表情で私に声援を送っていた。

視線を戻す。
進む先に、黒いビニールテープが見えた。

その近くには…
新田が足を組みながらイスに座っている。
その横には、藤崎。
よつんばいの姿勢で、じっとこちらを見ている。
前回レース時のオーラをまとっていた彼女とは、まるで別人だった。

処刑を待つ罪人。
出荷前の家畜。
それは、言いすぎか。
しかし彼女の心中としては、それに近いものがあるのかもしれない。

2周目。
ラップタイムは30秒。
前回より少し遅い。
罰ゲームが掛かっていなければ、こんなものか。
ふと、そんな考えが頭をよぎる。
慌てて、振り払う。

全力。

競走馬としての意地を見せてやる。
誰に向けての意地、なのか。
藤崎か、観客のふたりか。
新田、畑川。
分からない。
この程度でじゅうぶんと考えていた自分自身に対して、かもしれない。

もうじき、2周目も終わる。
私の熱が伝わったのか、観客席も盛り上がっていた。

関係ない。
私は私のできるかぎりのことをする。
それだけ。

藤崎。
目の端で捉える。
でも、見ようとは思わなかった。
見せつける。
馬としての、格の違いを。

黒いビニールテープを過ぎる。

ちなみに今回のレースは、5周ではなく、3周で終わりだった。
初めてレースに参加する藤崎に配慮してのことだ。

ラップタイムは、27秒。
前回レースより、少し早いペース。
喜びかけた自分を鼻で嗤う。

だって、今回は3周でいいのだから。
ペース配分を考えなくていい分、早くなるのは当然だった。

ラスト半周。
スパートをかける。
タイムなど、どうでもいい。
ただ、力を出し切りたかった。
目に入るのは、黒いビニールテープ。
そこをめがけて、両手両足を動かし続ける。
そして…

新田がタイムを読み上げる。
頭に入らない。
どうでもよかった。
荒い息づかい。
自分の呼吸。
全力を出し切った、という達成感よりも。
1周目をいい加減な気持ちで走ってしまったという後悔が強い。

「お疲れ」
新田が、出迎える。
「頑張ったじゃん」
手で、頭をポンポンと撫でられた。

それだけで、さっきまでわだかまっていた何かがスッと消え去ってしまう。
なんて単純なヤツ。
自嘲するが、嫌な気持ちはしなかった。

観客席からは、熱い声。
「すごいじゃん。思ってたより見ごたえがあって、ビックリしたよ」
浜本が、私を見ていた。

「うん、確かに。なんか、途中からギアが入ったみたいになってさ」
鳥越。
さっきよりも夢中になっているように見える。

「あーあ、私もこっちに賭ければよかったかなぁ。キミ、負けたら承知しないからね」
浜本が、もう一方のポニーに話しかける。
それが藤崎であるとも知らず。

藤崎も、そんな後輩たちの無礼を責めることはできない。
どんなに悔しくても、競走馬になりきるしかないのだ。
そして…
次は、藤崎の番だった。

畑川に手綱を引かれながら、スタート地点へと這っていく。
ただ。
スタート地点にたどり着いた藤崎は、あいかわらずオドオドしていた。

そんな藤崎とは対照的な畑川。
まるで、ドミナントだった。

「なんかさ、畑川先輩カッコよくない?」
浜本の声。
「うん。私も思った」
鳥越も同意する。
「ね。あんな表情するんだ…」
1年生たちの中で、畑川の評価が上がっていく。
その一方で…

「おーい、新人ポニー、しっかりしなよ!」
憐れにも、ヤジをとばされる藤崎。
同じ2年生同士のふたり。
それが、ほんのちょっとしたきっかけで、こうも変わってしまうのか。

畑川が馬に跨る。
少しの間があってから。
スタートの合図。
馬。
手と足を必死に動かしながら、前へと進む。

がむしゃらに、といえば聞こえはいいかもしれない。
また、今回がデビュー戦というのもある。
ただ、あまりにも必死すぎた。
一生懸命なのだが、それがかえって滑稽に見えてしまう。

コースの半分を過ぎ。
やがて、観客席の前を通り過ぎる。

手足をジタバタと動かしながら、観客席をチラっと見上げる藤崎。
そんな彼女に対し、1年生たちは笑いながらヤジをとばす。
あわてて視線をそらす藤崎。
そのまま2周目へと突入する。

ラップタイムは29秒。
私の1周目より、ほんの少し早い。
「おお…」
「意外とやるじゃん、新人」

ただ、私はこの後からペースを上げた。
一方、藤崎は最初から全力を出しているように見える。
今のスピードを維持できるかどうか。
ペース配分をつかみにくいのは、デビュー戦である彼女のハンデだった。

本来、そのサポートをするのが騎手の役目でもあるのだが…
畑川に、その意思はないようだった。
あいかわらず、ジタバタと手足を動かしながら進む。
ペースは落ちていない。
でも、早くなってもいない。
少し、ほんの少しだけ、疲れが見え始めた。
息づかい。
少し苦しそうだった。

それに気付いたのか。
「新人、頑張れー」
浜本の声援。
半分を過ぎ、こちらに近づいてくる。
やはり、疲れが見えていた。
黄色い声援と、ヤジを全身に受ける藤崎。

そして、3周目へ。
ラップタイムは27秒5。
私の2周目と、ほぼ同じ。

と。

それまで、ただ馬に乗っていた畑川。
突然、右手を振り上げた。
そして…

パァン!

思い切り、馬の尻を叩いた。
さっきまで騒いでいた観客が、静まり返った。
「ほら、ペース落ちてるぞ!しっかりしな、新人!」

パァン!

再び、尻を叩く畑川。

だらしない馬を叱咤するように。
言葉で、手のひらで、馬をはやし立てる騎手。

馬がペースを上げる。
雰囲気に飲まれた1年生たちは、まだ声を出せずにいた。

呻き声。
藤崎か。
全頭マスクで隠れてはいるが、おそらく歯を食いしばりながら、耐えている。

パァン!

子気味よい音。

藤崎のくぐもった声。

彼女の性癖。
強い言葉を投げかけられること。
そして、鞭。
畑川も、知っているはず。
知っていて、それでなお、責めているのか。
藤崎は、今ので完全にスイッチが入ってしまったはず。

「ほらほらほらほら!あともう少し!根性見せてみな!」

言いながら、手のひらでお尻をペチペチと軽く叩く畑川。
その口元には、うっすらと笑みが浮かんでいるようにも見える。
私の知らない畑川がそこにいた。

全頭マスクからのぞく、藤崎の目。
必死に堪えていた。
息苦しさ。
いや、それだけか。

正体を隠している、とはいえ。
後輩たちの前で、これ以上ブザマな姿を晒さないように。
ギリギリのところで、踏みとどまっている。
溢れそうになるなにかを、必死にこぼさないように。

後輩たちの見ている前で、ブルブルと体を震わせるのは、ゾッとするほど滑稽で、屈辱で、惨めだろう。

ゴールまで、あと5m。

4…

3…

2…

細川が、右手を振り上げた。
そして…
残り1mのところで、思い切り振り下ろす。

パァン!

黒いビニールテープを通り過ぎる、馬。
両腕を、突っ張りながら。
畑川を乗せたまま。
体を硬直させる。
押し殺した声。

観客席からは、少し離れている。
おそらく、1年生のふたりは気付いていない。
しかし…
ここからは、はっきりと見えた。
目を固く閉じ、全身を硬直させたまま。
体を震わせる、馬。
走り終えたゴホウビか。
あるいは、情けない走りをした罰か。

以前、新田によって刻まれた回路に。
再び、強烈な快楽が流れる。

負け犬としての、マゾヒストとしての烙印。
一生消えることのない痕が、畑川によって、更に深く刻まれていく。
彼女の脳、体に。
馬としてヒトを乗せ、観客の前でイク存在だということ。

ヒトに詰られ、お尻を叩かれると、自分がどうなってしまうのか。
どれだけ否定しても、消えない。
強烈な屈辱とともに脳が焼き切れていく快感。
一度知ってしまったら、もう逃げられない。
騎手への復帰は絶望的だろう。

次回のレース、彼女は馬として参加する。
いや、それ以降もずっと。
新田に命令されるからではない。
本人の強い希望。
表面上は、どれだけ取り繕えたとしても。
中身はもう、被虐的な願望を持つ、一頭の馬でしかないのだ。
ドミナントとして、この会を支配しようとしていた藤崎。

事実、その資質は持っていたのかもしれない。
ただ、取って代わるはずだった新田に、キバを抜かれ。
家畜として飼いならされてしまった。
かつての獣も、今はご主人様に尻尾を振る、忠実な下僕だった。

畑川に手綱を引かれながら、スタート地点へと向かう藤崎。
レース前と違うのは、その横に鳥越もいるという点。

浜本との賭けに勝った彼女は、この後、ポニーに乗ってコースを一周できるのだ。

笑みを浮かべている鳥越。
ここに来たばかりの時とは違い、すっかり楽しんでいる様子だった。

黒いビニールテープの前。

「ほら、ポニーにまたがりな、鳥越」
「はい」

緊張と、それ以上の好奇心と。
馬の肩に手を置き、ゆっくりと足を上げる鳥越。

「うわぁ、乗っちゃったぁ」

おそらく、彼女にとって初めての体験。

子どもの頃、遊びとしてお馬さんゴッコをしたことはあっただろう。
しかし、成人後、しかも馬は同年代の女性なのだ。

「いいなあ」
浜本が心底羨ましそうに見ていた。

一方、藤崎。
正体がバレないよう、気が気ではないはず。
ただじっと、床を見つめていた。

「ほら行くよ、ポニーちゃん。ぼさっとしてないで、前に進みな」
畑川の言葉に、あわてて進み始めるポニー。
ゆっくりと、一歩ずつ。

早く終えたくても、スピードを上げることは許されない。
畑川に叱られ、尻を叩かれてしまうからだ。

後輩たちの前で、情けなく。
痛みよりも、それ以上の羞恥心に苛まれることになる。

まして、つい先ほどのレース。
ゴール直前で畑川に尻を叩かれ、体を震わせていた藤崎。
今もその余韻は熾火となって、彼女の中で燻っているはずだった。

幸い、1年生のふたりは気付いていなかったが。
鳥越を背に乗せた状態で再びイッてしまったら、誤魔化しようはなかった。

折り返し地点。
さすが馬術部員というべきか。
鳥越は完全に乗りこなしていた。

乗りながら、馬の頭を撫でたり、こちらを向いてピースをしたりしている。

生き生きとした表情。
彼女がこの状況をいかに楽しんでいるかを物語っていた。

と。
馬の頭を撫でようとした鳥越が、おや?という表情をした。
馬の髪をかき分け、首元を注視する。

鳥越が、目を見開いた。

そして、馬の耳元で何かを語りかける。

突然。
馬が立ち止まった。

慌てた畑川が手綱を引っ張るが、動かない。

鳥越。

再び、馬の耳元に口を寄せる。
馬が、首を左右に振る。

そんな馬の様子を見て、鳥越が口元に笑みを浮かべた。

おもむろに、右手を振りかぶる。

そして…

パァン!

室内に、乾いた音が響き渡った。

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