Brave New World 二日目 1/2

翌朝のコンディションはあまり良くなかった。
頭が重い。
朝食も、いつもの半分しか喉を通らなかった。
一瞬、学校を休もうかという考えがよぎり、それから苦笑した。
風邪をひいた訳ではないのだ。
3年間の集大成とも言える夏のコンクール。その次には受験勉強が待っている。
この時期は一日たりとも無駄に出来ない。
ただ、学校へ行けば必然的に茜や内藤先生と会うことになる。
昨日あんな所を見せられて、どうにも顔を合わせずらい。
それに…
茜の妖艶な表情を思い出す。
もう以前のようには茜に振舞えない、そんな気がして自分が情けなくなった。
学校へ来てみたものの、授業の内容がちっとも頭に入ってこない。
板書をノートに書き写すだけで精一杯だった。
その日最後の授業。
これが終われば、やがて部活動の時間が始まる。
大丈夫、いつも通りでいい。
いつもと同じように振舞えば。
茜だって、覗いていたのが私だとは知らないはずじゃない。
音楽室の前まで来た。
中からは楽器の音だしが聞こえてくる。
これまでに何度となく繰り返してきた事。
しかし、初めて部活の見学に来た時もこれ程緊張していたかどうか。
深呼吸をして、それから思い切ってドアを開けた。
私に気付いた部員が次々に挨拶してくる。
その中には茜の姿もあった。
努めて平常を装って挨拶を返す。
自分の異変に気付かれたらどうしようという懸念もあったが杞憂だったようだ。
茜も他の部員と談笑している。
安堵して、準備室へ楽器を取りに行く。
私達が今練習しているのは夏のコンクールで演奏する予定の楽曲だった。
コンクールの後は、次の世代への引継ぎに関する細々とした事が残っている。
ただ、演奏するという意味では、このコンクールを以って引退ということになっている。
私は目を閉じて、最後の晴れ舞台に思いを馳せた。
先代から受け継いだ伝統を次の代に伝える。
部長としての役目は想像していた以上に苦しく、しかしやりがいのある仕事だった。
その集大成ともいえるコンクールが間近に迫っている。
長いようで短い二年半。
しかしここで過ごした日々を思い返してみると、やはり長かったという気もする。
その時、自分の名前を呼ばれた。
目を開けてみると茜が私の顔をうかがっていた。
茜の顔に少し怯えの色が混じった。
感慨に浸っていた所を邪魔されて、自分でも気付かぬうちにそれを顔に出してしまったらしい。
慌てて笑顔を取り繕って優しく訊ねた。
「どうしたの?困った事があるなら遠慮しなくていいわよ?」
それで向こうも安心したようだった。
「あの、どうしてもうまく吹けないパートがあるんです。ここなんですが」
そう言って自分の楽譜を差し出してくる。
「楽譜の通りに吹いてるつもりなんですが、違和感があるんです」
そう言って悲しそうな顔をする。
「ちょっと吹いてもらえる?」
頷いて、該当箇所を演奏する。
素直で一生懸命で、そんな茜が可愛らしく思える。
しかし昨日は…
私は確かに昨日、内藤先生を罵る加虐的な少女を見た。
その少女と、目の前にいる茜を比べてみる。
演奏を終えた茜がこちらを向いた。
2、3思った事を指摘してやる。
私の言葉に頷きながら、楽譜の端に走り書きをしていく。
どうしても、少女と茜を一致させる事ができない。
次第に、昨日の出来事が気のせいに思えてきた。
あまりにも現実離れした光景。
気付かぬ間に疲れが溜まっていて、そんな事があったという気になっているだけかもしれない。
ただ、それはそれで危ない気がするが。
走り書きを終えた茜が確かめるように演奏した。
今度はうまくいった。
「ありがとうございました」
いつもの笑顔を向けてくる。
「大分、上達したわね」
「先輩のお陰です」
少し照れて、それでも嬉しそうに言う。
「この学校に来て二ヶ月以上経ったけど、ここの生活にはもう慣れたかしら?」
「はい!友達もできたし、先輩方も良くして下さって。あ、でも朝早く起きるのはまだ大変です。結構遠いんですよ」
そう言っておどけてみせる。
「でも、ここの先生方もとても親切で本当に有難いです。特に内藤先生には」
その瞬間、私の心臓が大きく脈打った。
茜は、私の目を見ながら続けた。
「内藤先生って素敵な方だと思いませんか?優しくて、聡明で。それでいて美人なんですから。天は二物を与えないって言いますけど、あれってどうなんでしょう。そう思いません、先輩?」
「え、ええ、そうね」
動揺を悟られてはならない。
しかし茜の目はそんな気持ちさえ見透かしている、そう思えてしまう。
「しかしですね、のんな内藤先生にも可愛らしい所があるんですよ。内藤先生ってモテそうですよね。そりゃあれだけの女性を周り放っておかないでしょう。でも、なんと彼女、男性経験がないらしいんです」
「なっ…」
何て事を言い出すんだと思ったが、茜を止めることができなかった。
「なんでも高校時代、女の後輩と付き合っていたらしいんですが、その後輩に調教されてたらしいんですよ」
鼓動が一気にペースを上げた。
何か言わなければ。
しかし言葉が出てこない。
「ち、調教…」
やっとのことでその言葉を搾り出す。
「そう、調教。先輩、SMって知ってますよね?先生ってMの素質があったらしく、その後輩にとことん開発されちゃったらしいんですよ。信じられます?あの先生がマゾヒストだなんて。でもそれが本当なら、どんな顔をしてよがるのか見てみたいとは思いませんか?」
「そ、そんな事…」
まさか、昨日覗いていたのが私だと気付いているのか。
手が震えてきた。
「先輩の携帯ストラップ、昨夜ドアの側に落ちてましたよ?」
慌ててスカートのポケットをまさぐる。
取り出した携帯電話にはちゃんとストラップが付いていた。
はめられたと気付いた時には遅かった。
目の前には、昨日の少女が勝ち誇ったように立っていた。

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