一瞬の静寂。
そして…
アラーム音が鳴り響いた。
三井が這い進む。
彼女が馬になった姿を見るのは、これが初めてではない。
しかし…
私たちは、呑まれていた。
第一に、その速さに。
これまでと比べて、明らかにペースが速かったのだ。
会場が変わったからそう見える、という訳でもなさそうだった。
もし、このまま最後まで同じペースでいられたら…
不安に襲われる。
そして第二に、騎手の存在感。
左手に持った鞭で三井の尻を叩く藤崎。
鞭だけでなく、言葉でも追い立てる。
室内に響く、鞭の音、藤崎の罵声。
まるで、このレースですら調教の一環なのではないか。
そんな気すらしてくる。
あっという間に2周目へ突入した。
ペース配分を間違えているのでは。
じきに、ペースは落ちていくはず。
そんな淡い期待もむなしく。
一向にスピードは変わらない。
私たちは、理解した。
この1ヶ月、藤崎はただ調教をしていた訳ではなかった。
このレースに備えて、きちんと準備をしていたのだ。
かつての先輩をペットとして調教する藤崎。
それだけではなく、競走馬としても、鍛えていたのだ。
せめてもの救いは、私たちが後攻だったことだ。
油断していたわけではないが、もし先攻だったら確実に負けていたと思う。
そのまま、3周目、4周目へと入っていく。
藤崎の責めは、一向に弱まらない。
しかし、疲れてきたのか、三井の息があがり始めたように見える。
ラスト、5周目。
藤崎の複線がこちらへ向いた。
そして…
新田と目が合う。
藤崎が口もとに笑みを浮かべた。
時間にしてほんの数秒。
しかし確かに笑った。
ただ、それは決して友好的なものではない。
むしろ、ま逆。
宣戦布告。
覚悟しろ。
お前を這いつくばらせて、全てを奪い取ってやる。
実際のところは分からない。
でも、私にはそう受け取れた。
ニコリともせず、藤崎を見つめる新田。
何を考えているのか、その表情からは読みとれない。
そして、藤崎チームがゴールした。
スクリーンに表示されたタイムは…2分21秒。
前回の私たちのタイムより、2秒速い。
藤崎が、三井から降りる。
さすがに疲れたのか、三井の呼吸は荒かった。
「2分21秒かぁ。まあ、こんなもんか」
スクリーンを見ながらつぶやく、藤崎。
「アッキーも、お疲れ様」
「はっ…はいっ…」
藤崎に頭を撫でられている三井。
四つん這いのまま、息を整えている。
そのお尻は、左側だけ赤い跡がいくつも浮かんでいた。
しかし、2分21秒か。
回を追うごとに、タイムは短くなってきている。
レース開始当初ならともかく、2秒削るのは容易ではなかった。
本当に、勝てるのか。
先ほどの、藤崎チームの走り。
三井の好走。
そして藤崎の容赦のない追い込み。
耳から離れない。
と。
「中谷センパイ、ちょっと…」
声のした方を見る。
新田。
指で、こっちに来いというジェスチャーをする。
ゆっくりと、新田に顔を寄せる。
「もしかして、雰囲気に吞まれてるんですか?」
耳元で、新田がささやく。
「あれは藤崎先輩のパフォーマンスですよ。大きな声を出して、鞭で何度も叩いて…」
「で、でも…」
「大丈夫、落ち着いて。冷静になって考えてみてください。例えば…多目的練習室の床と比べて、ここは少し柔らかいでしょ?」
「そ、そうだけど…」
言われてみれば、多目的練習室はリノリウムの床なのに対して、この部屋は絨毯が敷かれていた。
「ひざに掛かる負担が少ないから、痛みも少ない。その分、ペースも落ちにくいんですよ」
「う、うん…」
「それとね、もう一つ。コースづくりの時に、歩幅で測ってみたんだけど。今までのコースより、ほんの少し距離が短い」
「えっ」
「ほんの少しだけどね」
全く気付かなかった。
「タイムだけ見れば2秒速くなってるけど、条件を考えれば前回とそう変わらない。だから、練習の時のペースを守れれば、必ず勝てるから」
顔を離す。
気持ちがフッと軽くなった。
「あ、ありがとう…」
「どういたしまして。負けたら承知しないから」
新田が口元で笑った。
「なーにコソコソ話してるのかな?」
藤崎の声。
「次は君たちの番だよ」
笑みを浮かべた藤崎が、仁王立ちでこちらを見ていた。
畑川に手綱を引かれながらスタート地点へと進む。
逆に、コース側からは藤崎と三井がこちらへ戻ってくる。
呼吸を整えながら、藤崎に手綱を引かれる三井。
お互いの距離が2mほどになった時。
三井と目が合った。
お互いの、滑稽な姿。
馬のコスプレをして、後輩に手綱を引かれながら這う姿。
自信なさげだった三井の顔に、笑みが浮かんだ。
好戦的な目。
『どう?アンタじゃこのタイムは超えられないでしょ』
とでも言っているような。
一瞬、頭がカッと熱くなる。
でも、すぐに冷静になった。
馬上で競いあっていたふたりが、今は馬として競いあっている。
それも、お互い指導担当だった後輩を乗せて、である。
後輩のペットに堕ちてなお、私に勝とうとしている。
騎手としてではなく、馬として。
それがなんだか、彼女が今の立場を受け入れた証のような気がして。
何となく、さみしく感じてしまったのだ。
スタート地点。
これまでのレースとは違う景色。
でも、やるべきことは変わらない。
そう自分に言いきかせる。
それでも、もしこの勝負に負けてしまったら…
想像してしまう。
藤崎に、マスクをはぎ取られる所を。
高倉や溝口の前で、馬として現れる所を。
そして…
先ほどの、藤崎の目。
新田に取って替わろうとしている。
確証はない。
でも…
新田を、ご主人様を、危ない目にあわせる訳にはいかない。
背中に重みが加わる。
畑川。
勝ちましょうね、絶対。
耳もとで、囁かれる。
このレースに備えてきたのは、藤崎や三井だけではない。
私たちもそうだった。
勝つ。
勝って、藤崎をひれ伏せさせる。
ご主人様の前で。
スタートの合図。
飛び出す。
焦る気持ちを抑え、ペースを維持する。
景色が流れていく。
場所が変わっただけで、やることはこれまでと同じ。
だから、必要なこと以外は考えなくていい。
ベルトパーテーションで作られたトラックを周る。
まずは一周。
「27秒53」
畑川の声。
「このペースを維持して」
心の中でうなずく。
ペース配分は、畑川に委ねている。
私はただ、手を、足を動かすことに集中する。
先ほどの、藤崎と三井。
三井を叱咤する藤崎の声。
鞭の音。
後輩に調教され、堕ちていった、かつてのライバルの姿。
いや、今でもそうか。
新田によって埋め込まれ、藤崎によって芽吹いた被虐の種。
誇り高き騎手ではなく、馬として、私に立ちはだかる三井。
好戦的な目。
後輩のペットに成り下がり、マゾ女としての己を受け入れた今でも。
私への対抗意識は、消えていなかった。
そして、藤崎。
『正体、気付いていますよ?』
蔑みと、挑発。
『サークルのツートップであるふたりを、私が飼ってあげます』
『三井センパイと一緒にお散歩させてあげますね。それとも、競わせあげましょうか?ペットとしての優劣を、競わせてあげます』
あのナマイキな後輩を、ひれ伏せさせる。
ソファに座る藤崎。
その足もとで正座をする三井と私。
どちらも、同じ格好をしていた。
犬のコスプレと、黒のビキニ。
期待を込めた目で、藤崎を見つめる2匹の犬。
ご主人様の言いつけ通り、じっと待ち続ける。
藤崎の両足が突き出された。
右足を三井が左足を私が。
両手で、捧げ持つ。
『まだ待て、だよ』
焦らされる。
『ふたりとも、すっごい顔してるよ?撮ってあげよっか』
イジワルなご主人様。
そして…
『はい、いいよ』
許可が下りる。
言い終わらないうちに、三井も私も、『ソレ』に顔を押しつける。
同性の、年下の女の子のくつ下。
それも、部活後の汚れたやつだ。
汗でムレたニオイ。
屈辱と、背徳感。
悔しさと情けなさによって刺激された、マゾとしての性が。
脳を誤作動させる。
すえたニオイを放つ、後輩のくつ下。
鼻腔を抜けて直接脳へ作用する、ニオイによって。
顔に押しつけた瞬感にわき上がる、強力な感情。
覚え込まされていく。
誤った情報が、脳に刻まれていく。
堕ちていく感覚。
ダメなのに…
思えば思うほど、意識してしまう。
刷り込まれてしまう。
『どう、いいニオイでしょ?好きだもんね。ふたりとも』
違う。
好きじゃない。
こんなニオイ、好きなわけないじゃない。
そう思っても。
夢中で堪能してしまう。
一度、ニオイを嗅がされてから。
思い出すたび、体が反応する。
求める。
あのニオイを。
あの屈辱を。
どんなに否定しても、嫌悪しても、気付くと心待ちにしている自分がいた。
そして二度目の時。
やはり、吐き気を催すほどのニオイ。
それなのに…
どうしようもなく昂る。
満たされていく。
待ちに待ったご馳走をむさぼるように、鼻を鳴らす。
藤崎の笑い声。
バカにされているのに、止められない。
悔しい。
悔しい。
悔しい。
敗北感。
嬉しい。
ずっと嗅いでいたい。
大好き。
自分の全てを捧げたい。
ご主人様の一番になりたい。
『次からは、競争させるね。勝った方にはゴホウビあげる。負けた方はオアズケ。分かった、可愛いワンちゃんたち?』
返事をする代わりに、思いきり吸い込む。
ゴホウビ。
欲しい。
負けたくない。
三井なんかには、負けない。
湧き上がる、忠誠心。
独占欲。
対抗心。
鼻を鳴らしながら、三井を見る。
目が合う。
アンタなんかに、ゼッタイ負けない。
睨み合う。
『ふふっ。ふたりともチョロいねー。くつ下のニオイを嗅ぎたくて、そんなに必死になっちゃって。さーてと、こいつらにどんなことさせよっかなー』
「集中!」
畑川の声。
同時に、パシッ!という、乾いた音。
お尻に広がる、じんわりとした痛み。
現実に引き戻された。
また、私は妄想の世界へと入っていた。
畑川は、そのことに気付いたのだ。
2周目、3周目を終え、4周目へ突入する。
その度に、ラップタイムを告げる畑川。
それが速いのか遅いのか。
頭が追いつかない。
「大丈夫。今のペースを保って。そうすれば勝てるから」
勝てるのか。
あのふたりに。
でも、三井はもっと速くなかったか。
それに、体力はもつだろうか。
息があがり始めている。
四肢に、乳酸がたまり始めている。
次々と思念が湧いてくる。
「大丈夫。信じて」
負けない。
少なくとも、気持ちでは、三井に負けるわけにはいかない。
新田に、私たちのご主人様に、恥をかかせるわけにはいかない。
そして、藤崎というあの不遜な女に思い知らせなければならない。
自分が、どんな存在に立てつこうとしていたのかを。
「ラスト1周!」
脚裏に、様々な影像が浮かんでは消えていく。
それをただ眺めるように感じ続ける。
藤崎。
憧れの先輩だった三井を服従させ、完全に立場を入れ替えてしまった女。
新参者であるにも関わらず、今、私や畑川をも屈服させようとしている。
そしていずれは…
鞭を持ち、酷薄な笑みを浮かべる藤崎。
彼女が座っているのは、四つんばいになった三井の背中。
かつて敬愛していた先輩を、今は当然のように椅子として扱っている。
そのすぐ脇には、正座をした私と畑川。
藤崎が足を組む。
彼女の目の前には、ひとりの少女が立っていた。
怒りと屈辱で顔を真っ赤にした新田。
私たちの新田への畏怖や敬愛が、失望と軽蔑とに変わるように。
女王としての矜持を踏みにじり、歯向かう気など起こさせないように。
藤崎が命じる。
悔しさで、こぶしをブルブル震える新田。
ゆっくりと、身を屈める。
ひざをつく。
両手を床につけ…
藤崎の突き出した足へと。
顔を寄せていく。
新田の口から出た、赤い小さな舌が。
ついに、触れた。
かつて絶対的な権威を誇っていた女王の失墜。
そして、新たな女王の誕生。
藤崎の高笑い。
新田の、涙。
情景が歪んでいく。
次に現れたのは、勝ち誇った笑みを浮かべる新田。
対照的に、藤崎は何とも情けない表情をしていた。
乗馬服を着た新田と、馬のコスプレ姿をした藤崎。
神経質そうに周囲を窺いながら、四つんばいになる藤崎。
新田が、藤崎に跨る。
馬として、コースを周る藤崎。
新田が、手に持った鞭で馬の尻を叩く。
よほど悔しいのか、顔を真っ赤にする藤崎。
しかし反抗もできず、新田に従順な馬として振舞い続ける。
次第に、藤崎の胸に不安がよぎる。
こんな姿、もし誰かに見られたら…
藤崎の視線が、頼りなげに泳ぐ。
その瞬間、ふいにドアが開いた。
入ってきたのは、ふたりの女の子。
藤崎もよく知る、サークルの1年生。
ふたりが藤崎のほうへ歩み寄ってくる。
慌てて顔をそらす藤崎。
そんな彼女の髪を掴み、顔を上に向ける新田。
クスクスと笑う、1年生。
真っ赤な顔を指摘され、さらに顔を赤くする藤崎。
1年生たちを叱りつけながら、何とか言い訳を考える藤崎。
そんな必死な姿を、後輩たちがあざ笑う。
かつては先輩である三井すら服従させ、新田にとって代わろうとすらしていた藤崎。
そんな、分不相応な野望を持った彼女の末路。
1年生が、スマホを取り出す。
自身に向けられたスマホ。
ピロンッ。
ピロンッ。
写真を撮られる音。
グループチャットへ投稿しようとする1年生と、必死に止める2年生。
いつの間にか、ひとりは藤崎に跨り、もうひとりは彼女の手綱を引いていた。
屈辱に耐える藤崎だったが、グループチャットに晒されるよりはマシだった。
彼女たちに揶揄われながら、馬として振舞う藤崎。
早く終われ、早く終われ…
それだけを念じつつ。
ふと、違和感を感じる藤崎。
1年生ふたりの、意味ありげな笑み。
イヤな予感がする。
ドアのほうを見る。
そこにいたのは…
可笑しそうに笑っている、ほかの1年生たち。
ようやく、藤崎は理解する。
新田の罠に嵌められたのだということを。
そして今後、自分が彼女たちからどのように扱われるのかを。
脳裏に浮かんだ、2つの情景。
新田と藤崎の関係性は、真逆だった。
両雄並び立たず、という言葉があるが、彼女たちもそうなのだろうか。
最終コーナーを回り、残すは最後の直線のみ。
黒いビニールテープ。
見えた。
あれを過ぎれば、終わる。
藤崎チームより早いのか。
まだ間に合うのか。
ただ、手を、足を動かし続ける。
スパートできるほどの力は残っていない。
気を抜けば倒れてしまいそうになる体を、何とか維持するので精一杯だった。
叫び声。
聞いたことのある声。
誰なのか。
思い出せない。
今はどうでもよかった。
ただゴールする。
スローモーションのように、近づいてくる。
黒いビニールテープ。
そして…
私の身体が、その上を通過した。
再びの叫び声。
結果は?
結果は、どうだった?
そうだ。
スクリーン。
そこにタイムが、私たちの未来が映し出されているのだ。
見上げる。
そこに映し出されていたのは…


コメント
藤崎様…これは…(T ^ T)
>匿名さん
コメントありがとうございます!
勝負は非情です😢
レースの結果を、そして藤崎の行く末を、どうか見届けてあげてくださいm(_ _)m