新田の部屋で調教を受けてから、3日後。
私は今、新田とともにサークル棟にいた。
時刻は午後9時過ぎ。
馬術部員はおろか、サークル棟にひと気はほとんどなかった。
「あの子が来る前に、早めに着替えちゃったほうがいいですよ」
私のとなりには、新田。
「う、うん…」
「もし来ちゃっても、私が時間を稼いでおくので、慌てなくてもいいですからね」
「あ、ありがと…」
震える手で、服を脱いでいく。
新田の、ニヤリとした視線。
私の緊張を見透かされているようで、必死に、手の震えを隠す。
黒い、ワンピースタイプの水着。
ポニーの時と比べると、露出度は抑えめだった。
ただ、その一方で…
いつもとは違う、全頭マスク。
ドッグマスクというらしいそれは、その言葉通り、犬を模したマスクだった。
黒いレザーでできたそれは、鼻先が尖り、耳は丸みを帯びている。
手に取り、眺める。
これを、被るのか。
ゆっくりと、マスクに頭を入れていく。
ヒトとしての自分が、上書きされていくような感覚。
まるで、本当に犬になってしまうような…
馬のコスプレをしている時とは、また違った屈辱があった。
「あれ、結構似合ってるじゃないですか。ほら、鏡で見てみてくださいよ」
鏡面に映る、己の姿。
わずかに開いた穴からは、不安げな目が覗いていた。
あまりにも情けなく、ミジメで…
これが自分だと思いたくなかった。
目を背けようとするが、鏡に映った女は、私と全く同じ動きをするのだった。
「はい、じゃあコレ付けてあげるから、こっちに来てください」
首輪。
つい先日、新田からもらったもの。
新田に、ご主人様に、首を差し出す。
「いい子ですね、藤崎センパイ」
揶揄う新田の言葉に、ゾクゾクしてしまう。
ひんやりとした感触。
野性的な革の臭い。
先日の調教が、鮮やかによみがえる。
「やっぱり似合ってる。オマエにぴったりの首輪だよ。よかったね、舞」
「は、はい…」
首輪を付けた瞬間から。
先輩後輩ではなく。
ご主人様と、飼い犬になる。
「学生証、付けようね」
コクンと、頷く。
バッグから取り出した学生証を、ネームホルダーに差し込む。
いつもはストラップを首から下げるのだが、今回は違った。
ホルダーに付いた小さな金具で、首輪に取り付けるのだ。
だが、視界の悪さに加え、慣れていないのと、手の震えとで、なかなかうまく取りつけられない。
新田が優しく微笑む。
「いいよ、私が付けたげる。貸して」
ホルダーを渡す。
「楽しい時間にしようね、舞」
首輪にホルダーを取り付け終わった新田。
優しく私を抱きしめてくれた。
一瞬、緊張が和らいだのも束の間。
ドアをノックする音。
来た!
心臓が跳びはねる。
私を見てニヤッと笑う新田。
そのままドアまで歩き、鍵を開けた。
ドアから顔を覗かせたのは…
「風香ちゃん、待ってたよ」
「ごめん!ちょっと遅くなっちゃった」
そう言いながら、部室へと入ってくる鳥越。
そして…
「あーっ!」
私に気付いた。
あの表情だ。
目を細め、品定めするかのような、冷たい笑み。
「こんばんは、ワンちゃん。レースの時以来だから、10日ぶりだね。それとも…ついさっきぶり、なのかな?」
意味深な言い方をする鳥越。
暗に、私の正体に気付いているのだと、仄めかしているのか。
「ふふっ。どうだろうね」
新田が、私の代わりに応えた。
「しっかし、ポニーになったと思ったら、今度はワンちゃんなんてね」
しゃがみ込み、私と同じ目線になる鳥越。
じっと見つめられ…私は耐えられず、目を伏せた。
「それじゃ、そろそろ出発しようか」
「そうだね。ワンちゃん、心の準備はできてるかな?」
鳥越の、からかうような口調。
新田にリードを引かれながら、ドアの前まで歩く。
4つ足の愛玩動物として。
「風香ちゃん、撮影お願いね」
「もう撮ってるよー」
スマホを向けられているのは、目の端で捉えていた。
新田がドアに手を掛ける。
未知の領域。
ひと気はない。
しかし、まだ誰か残っている可能性はじゅうぶんにあった。
もし、誰かに見つかりでもしたら、終わる。
見つかった先のことはイメージできない。
というより、あえて考えないようにしていた。
具体的な映像が頭に浮かぶたび、無意識にうち消していたのだ。
新田が、通路に出る。
続いて、私も後に続く。
サークル棟は、本館から少しだけ離れた裏手にある。
日中は、講義後の学生で賑わっている場所だった。
コンクリートの壁で囲われた通路へと、這い出る。
日中の喧騒が嘘のように静まり返っていた。
普段、ヒトとして、当たり前に過ごしている場所。
これから、そんな場所で両手を床につけながら、這いまわるのだ。
1年生のふたりに見下ろされながら。
ヒトとしての記憶。
犬としての視点。
弓道部、剣道部、ラクロス部の部室を通り過ぎる。
友人や顔見知りが、脳裏に浮かんでは消えていく。
その度に、胸が甘く締め付けられる。
もし誰かに見つかってしまったら。
考えるたび、襲ってくる不安と。
いいようのない昂り。
こんな状況に興奮しているのだ。
数か月前の自分が今の私を見たら、どう思うだろう。
堕ちたのだ。
改めてそう思う。
このまま、どこまでも堕ちていきたいとすら思った。
薄暗い通路をゆっくりと歩く新田。
周囲をうかがいながら、後に続く。
新田につけてもらった首輪。
それにぶら下げられた学生証が、歩くたび揺れる。
私を見下ろす2人よりも学年が上であることを示す、身分証。
マスキングされていて、何が書かれているかは、分からないようになってはいるが…
先輩であることを知られないことが、かえって私の尊厳を守っていた。
不安そうにしつつも、この状況に昂っている姿。
後ろを歩く鳥越には、おそらく丸わかりなのだろう。
しかも、スマホで撮られていた。
言われずとも、後で新田に編集させられることは分かっていた。
『ここにホクロがある人、私、知ってるんだよねぇ』
あの日、鳥越に耳元で、そう囁かれたのだ。
自分でも知らなかった位置にある、ホクロ。
まさかと思い、あの日、鏡に映してみた。
本当に、存在していたのだ。
鳥越は、知っていたのか。
それとも、カマをかけたのか。
鳥越の位置から、見えているだろうか。
私の首元。
髪が、あるいは首輪が隠してくれていることを願う。
意味のないことと知りつつ。
だって、すでに知られているのだ。
私のホクロの存在。
でも、そう思いつつも、どうしてもその視線が気になってしまう。
通路の突き当りまでやってきた。
やや広い作りになっているそこには、談笑用の丸テーブルがいくつか置かれていた。
ここも、普段は学生たちがたむろしている。
私も、そのうちのひとりだった。
「ここが、折り返し地点ね。ちょうどいいし、一休みしていこうか」
新田が告げる。
一刻も早く部室へ戻りたい私のことなど、一顧だにせず。
いや、分かっているからこそ、敢えてそうしているのか。
丸テーブルを囲うように置かれた椅子。
新田と鳥越が座った。
私は…
「アンタは、待てのポーズ、してな」
新田。
通称、待機のポーズ。
中腰になり、両手…いや、前足を胸元で揃えて立つ。
そのまま、ご主人様がいいと言うまでその姿勢でいるのだ。
スペースの端に置かれた自動販売機。
淡い光と、ブーンという小さな音を放っている。
「よかったね、風香ちゃんと一緒にお散歩できて」
新田がイジワルな笑みを浮かべている。
「風香ちゃんとお散歩するの、楽しみにしてたもんね」
「そうなんだぁ。私も嬉しいよ、ワンちゃん?」
鳥越の猫なで声が、私の自尊心を刺した。
「さてと、そろそろ出発しよっか」
新田が立ち上がる。
「風香ちゃん、はい」
立ち上がった鳥越に、リードを渡す新田。
「次は、風香ちゃんの番ね」
「ありがと」
リードが、私の所有権が、鳥越の手に渡る。
目を細めた鳥越。
私を見下ろしていた。
心臓が跳ねる。
鳥越のペットになったのだ。
そう思うと、全身が震えた。
照れなのか、羞恥心なのかは分からない。
体の奥からこみ上げる、感情。
ドキドキが止まらない。
まともにその顔が見れなかった。
「ほら、行くよ、ワンちゃん」
その言葉。
くすぐったさを感じながら、私はうなずいた。
全身が熱い。
鳥越の『ワンちゃん』という声が、リフレインする。
その度に、下腹部が疼いた。
「あれ?なんか私の時より嬉しそうなんだけど?」
目ざとい新田。
「やっぱり、私よりも風香ちゃんのほうがいいんだ」
冗談ぽく非難するような口調で揶揄ってくる。
「そうなんだぁ。嬉しいよ、ワンちゃん」
鳥越。
目を細めて笑う表情に、私は耳まで熱くなってしまう。
先ほどとは別の経路を通って戻る。
と言っても、通路はぐるっと繋がっており、いずれにしても馬術部の部室には戻ってこれるようになっていた。
バスケットボール部、ダンス部、水泳部の部室。
通り過ぎていく。
テニス部の部室まで来た時だった。
部屋から漏れる、わずかな光。
中からは、誰かの話し声が聞こえる。
人がいるのだ。
さっきまで私を支配していた倒錯的な感情。
瞬時に、焦りへと変わった。
鳥越と新田も気付いたのか、真剣な表情をしていた。
立ち止まる。
このまま進むのか、あるいは引き返すか。
テニス部にも数人、知り合いはいた。
今、中にいるのがそうではなかったとしても、もし見られたら、知れ渡るのはあっという間だろう。
鳥越が、人差し指を口に当てた。
そして、ゆっくりと、歩き始めた。
なるべく足音を立てず、ゆっくりと。
こんな姿を見られたら、終わる…
ヒトとして、大学生として、女として。
脳裏をよぎる、嘲笑。
憐れみ、蔑み、あるいは好奇心に満ちた視線。
人生が台無しになった瞬間を、ありありと想像する。
想像してしまう。
血の気が引くような、恐怖と。
奥歯がガタガタ震えるほどの、身を焦がすような恥辱。
『裸を見られて、コーフンしてるだろ』
新田に言われた言葉。
なぜ、今。
こんな姿、見られて興奮するわけない。
『信じられない?じゃあ、今度確かめてみようよ』
部室から聞こえる声。
気のせいか、大きくなっていく。
いや、気のせいではない。
足音。
近づいてくる。
どこか!どこかに隠れなきゃ!
必死に、周囲を見渡す。
立ち上がろうとするが、足が震えて力が入らない。
と。
肩を叩かれた。
新田。
3mほど先にあるゴミ箱を指差していた。
「行くよ?」
新田に手を引かれながら、ドタバタとゴミ箱へ這い寄っていく。
恥も外聞もなかった。
身を隠すのとほぼ同時に。
ガチャ…
ドアの音。
「あれぇ?鳥越じゃん」
聞き覚えのある声。
新田が私から離れ、部室前へと戻っていく。
「それに、新田も」
「大友先輩、岩本先輩、こんばんは」
「こんばんは」
新田と鳥越が、挨拶する。
どちらも2年生で、私の同期だった。
肌に触れる、コンクリートの冷たい感触。
私はゆっくりと、リードを手繰り寄せていく。
「どうしたの、こんな夜に」
「部室でおしゃべりしてたら、すっかり遅くなっちゃって…」
「そうなんだ。全く、気を付けなよ?なんて、私たちも似たようなものなんだけどね」
アハハ、と笑う大友。
ようやく、リードを全て手繰り寄せた。
丸めて、お腹で抱えるようにして隠す。
「もうすっかり遅いし、途中まで一緒に帰る?」
岩本。
「それが、部室に忘れ物しちゃって…取りに戻らないと」
鳥越が答える。
「そっか。じゃあ、私たちはもう帰るけど、ふたりも気を付けて帰りな」
「はい。ありがとうございます。先輩たちも、お気をつけて」
足音。
近づいてくる。
頭が真っ白になる。
体をギュっと丸めながら、息を殺す。
イヤだ!バレたくない!
お願いだから!
必死に祈る。
そして…
大友と岩本が、私の傍を通り過ぎる。
ヒトの、濃厚な気配。
スニーカーのゴムが軋む音。
振り向くな…
振り向くな…
祈りが通じたのか。
そのまま、二人の足音は遠ざかっていった。
音が聞こえなくなってから、数秒後。
ふぅ、っと。
私は、大きく息をついた。
足音。
新田と鳥越がやってきた。
「いやぁ、びっくりしたね」
鳥越。
「まさか、あのタイミングで出てくるとは思わなくて…ごめんね、怖い思いさせちゃったね」
よしよし、と。
私の頭を撫でる。
「どうする?このままここで、少し気持ちを落ち着ける?」
新田の言葉に、私は頷いた。
いつまでもここには居たくなかったが、まだ心臓がドキドキしていたのだ。
深呼吸をして、気持ちを整えようとする。
しかし…
もし、大友や岩本に見つかっていたら、どうなっていたか。
想像してしまう。
どんな目で、私を見ただろうか。
どんな言葉で、私を詰っただろうか。
『コイツ、マゾなんです』
新田。
『普段は先輩面してるのに、ホントはこんな恰好して、私たちに飼われたがってるんです。ほら、見てください』
鳥越。
大友、岩本が、私の顔を覗き込む。
『へぇ…』
対等な、同期としてではなく。
好奇心と蔑みが交錯した、冷酷な笑みを浮かべていた。
『ちっとも、知らなかったわ。アンタ、後輩に飼われてたんだ』
大友の憐れみにも似た声。
『今度、テニス部にも貸してよ。ウチの後輩たちの前で芸をさせてあげる』
『いっぱい、可愛がってあげるからね、舞ちゃん』
岩本の、ゾッとするような声。
屈辱、恥辱。
テニス部の1年生の前で、自己紹介させられる。
2年生の、藤崎舞ではなく。
ペットとして、マゾとしての、私を。
そんな状況を想像し、私の下腹部は切なく疼くのだった。


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