新田がレースのルールを説明する。
「この黒いビニールテープがスタート地点であり、ゴールです。コースを左回りに走って、先に三周したポニーから順位が決まります」
ギャラリーが、ベルトパーテーションで仕切られたコースを眺める。
「うわぁ、いよいよ始まっちゃうんだ…なんか、緊張してきた」
「なんでお前が緊張するんだよ」
「だ、だってぇ…」
溝口が、呆れたように優菜にツッコミを入れる。
「三周なんだ。結構短いね。もっと走らせてもいいんじゃないの?」
「人を乗せて走るんでしょう?三周でも結構長いと思うけど」
内海と大貫。
「最後にゴールしたポニーには罰ゲームが待っています。そして、その罰ゲームに参加できるのは…1位から3位までの順番を正確に当てられた人になります!」
「ああ、楽しみ。早く正体が知りたいなぁ…」
内海が3号を見つめながらつぶやく。
「もし、正解者がいなかったらどうなるの?」
大貫が尋ねる。
「その場合は、1位を当てられた人だね。今回1位に選ばれなかった子はいないから、誰かしらは罰ゲームに参加できるよ」
新田が答える。
そうだ。
このレースが終わったら、私たちのうち誰かが、必ず罰ゲームを受けることになる。
逃れようのない事実なのだ。
「それじゃあ、出走者の皆さん、位置についてください!」
来た!
ビニールテープまで這い進んでいく。
指先が、震えている。
怯えているのか、私は。
その事実が、私の気持ちをさらに追い詰めていく。
スタート地点に並ぶ、出走馬たち。
インコースには3号。
その隣に4号。
そして、アウトコースには私。
くじ引きの結果、この順番になったのだ。
今回のレースでは、3頭が一緒にコースを走ることになる。
これまでのように、別々に走ってタイムを競う形式ではなかった。
この形式では、アウトコースは完全に不利だ。
単純にインコースと比べると走る距離が長くなり、その分、先行を許してしまう可能性が高い。
一度先行されると、追い抜くのは容易ではないはずだった。
つまり、3頭の中で最も不利なのは、アウトコースの私なのだ。
脳裏に浮かぶのは、罰ゲームのシーン。
晒し者として、1年生たちの前に立つ私。
スクリーンには、モザイクも音声の編集もない、ありのままの私が映し出される。
情けない姿をしたこの女が、3年生の中谷紗枝であることを。
新田に鞭を振るわれ、屈辱的な喜びに震えるマゾヒストであることを。
1年生たちは冷笑し、あるいは驚きの表情で受け入れる。
目の前にいる私と、画面に映る私を交互に見つめる彼女たちの視線。
そんな彼女たちの前で命じられる。
『マスクを外しなさい、紗枝』
その瞬間を想像しただけで、全身がカッと熱くなった。
1年生たちの好奇心に満ちた視線。
他のポニーたちからの優越感に満ちた視線。
そんな屈辱と羞恥とが、ほんの数分後に待っているかもしれないのだ。
横一列に並ぶポニーたちに向けて、ギャラリーから声援が響く。
無論、純粋な応援ではない。
マスクの下を見たい。
先輩をひざまづかせたい。
そんな、ギラついた欲望に塗れた声が、私たちの体にまとわりついていく。
観客席でくつろぎながら見物する1年生たち。
彼女たちにとって、このレースはただの娯楽に過ぎない。
心臓の音。
心の準備など、できてはいない。
競走馬。
相手は、競い合い高めあうような存在ではない。
健闘を讃えあう存在でもない。
己の尊厳をかけて、ただ蹴落とし合う。
負けた者は、後輩たちの前で素顔を晒し、その立場を失墜する。
恥辱に塗れながら家畜へと堕ちていくその様を、勝者は眺める。
いや、勝者などいない。
ただ、負けなかっただけ。
「位置について、よーい…」
新田の合図。
「スタート!」
3頭のポニーが飛び出す。
騎手の罵声。
鞭の音。
1年生の黄色い声が耳をつんざく。
スタートダッシュに成功した3号が、わずかに先行する。
私と4号が、横並びになる。
微かに私の方が前を進んでいるものの、彼女の前に出られるほどの差ではなかった。
最初のカーブを3号が曲がり始める。
そのあとに、私たちも続く。
追い抜こうとする私の進路を、4号が小狡く塞ぐ。
微妙な位置取りだった。
結局追い抜くこともできず、若干大回りするような形でカーブを曲がることになってしまった。
クソッ!
焦りと苛立ちが胸を締める。
直線から、2回目のカーブへ。
ここで追い抜くのは無理だ。
それに、万一追い抜けたとしても、体力を余分に消耗してしまう。
今は耐えるしかない。
チャンスは必ずあるはず。
カーブを過ぎ、直線へ。
やはり、4号は執拗に邪魔をしてきた。
焦りと苛立ちが、冷静な思考力を奪っていく。
3号を先行させつつ、私が能力を発揮できないよう邪魔をする。
怒りと焦りが渦巻く。
これまでの、タイムを競い合うレースとはまるで違う展開。
分かっていたのに!
分かっていたはずなのに、クソッ!
二周目も、同じような展開が続いた。
先行する3号に対し、4号と1号が競り合う。
早く、追い抜かないと!
このまま追い抜けないと、罰ゲームになってしまう!
目の前には、4号とベルトパーテーションとの間に生じた空間。
そこへ入ろうとした途端、4号が体を寄せ、コースの内側を陣取ってしまった。
諦めて後方に下がると、再び隙間が現れた。
誘っているのだ。
私があの隙間に入ろうとするのを。
そして、入ろうとしたら邪魔をする。
そうやって、私から体力を奪うつもりなのだ。
早くも最終周。
相変わらず先頭を走る3号。
差は、だいぶ開いてしまった。
ここから追い抜くのは不可能だった。
追い抜けそうで追い抜けない、いやらしい位置で進路を塞いでくる4号。
左回りのコース。
4号の左側に空いた空間。
しかし、割り込もうとした瞬間に閉じてしまう。
右側から追い抜こうとすると、4号も右側へと寄っていく。
コイツ…!
コイツ…!
はらわたが煮えくりかえりそうだった。
このままだと、負ける。
負け犬として、後輩たちの前で晒されてしまう。
下卑た笑みを浮かべる後輩たちの前で、私の素顔が、恥ずかしい秘密が、公開されてしまう。
その横には、勝ち誇った目で私を見る4号が…
悔しさで、頭がカッとなった。
いっそ、最後に転倒覚悟で体当たりでもするしかないか。
怒りと焦りは、思考を極端な方向へと向かわせる。
いつしか頭の中では、4号にどう仕返しをするかという妄想に囚われはじめていた。
4号に体をぶつけ、押し倒す。
あの、白く揺れる太ももに、私は歯を突き立てて…
そんなことを考えていた時だった。
「大丈夫、落ち着いて」
耳元で、声がした。
「私に考えがある」
畑川。
歓声が飛び交う中、私にだけ聞こえる音量で語りかけてくる。
冷静さを欠いた私を宥めるための気休めか。
一瞬、そんな考えがよぎった。
それでもいい。
声を聞いたおかげで、再び現実世界に戻ってこれたのだ。
最終周の最初のカーブ。
もう3号の姿は遥か前方だった。
いや、それはもうどうでもいい。
今は、4号を追い抜くことが全てだった。
「直線に入ったら、アイツの左側に割り込むフリをして。そしたらすぐに右側に回る。そこでまた、追い抜くフリをするの。あくまでフリで、追い抜こうとしなくていいから」
カーブを曲がり切る。
畑川の指示通り、私は4号の左側に割り込もうとする。
気配を察知した4号は、すぐに幅を寄せてきた。
寄せ切る前に、私は右側へと回る。
慌てて、4号も進路を塞いでくる。
「もう一回!」
畑川の声。
両腕、両足に溜まった乳酸が、私を後ろへと引きずる。
全身の細胞が、酸素を欲して声高に叫ぶ。
しかし、肺もすでに悲鳴を上げていた。
疲労はピークに達しようとしていた。
それでも、諦めるわけにはいかなかった。
不思議と、負けるのが怖いという感情はなかった。
意地。
ポニーとしての。
新田の…ご主人様のペットとしての。
4号の左側は、さっきよりもスペースがあるように見えた。
頭のてっぺんから、ねじ込むように入り込もうとする。
まるで私の頭を押しつぶすかのように、4号の体が迫ってくる。
すぐに後退し、右側へ回る。
「あはは!無駄だって!」
興奮した鳥越が叫ぶ。
4号の尻を叩くために、鳥越が鞭を振り上げる。
それが、私の頬を掠めた。
私の中で、何かが切れた。
最後のカーブ。
4号の尻に顔がくっつくくらいの位置で。
必死に喰らいついていく。
畑川が、再び私に語り掛けてくる。
既に、彼女の意図は分かっていた。
「チャンスは一度だけ。大丈夫、きっとできる」
心の中で、畑川に頷く。
ラストの直線。
再び、私は4号の左側へと体をねじ込んでいく。
4号が幅寄せを始める。
私は少しスピードを落とし、後方に下がる。
そして、すかさず右側へ…
回らなかった。
再び、4号の左側目掛けて突っ込んでいく。
4号が、体を右へ寄せていく。
そうやって、できたスペース。
私の体が、ギリギリ通りそうなほどの空間。
私は、突進した。
全身全霊の力を込めて。
私が、右側から来ると思い込んでいた4号。
明らかに動揺していた。
鳥越の罵声。
4号の体が再び迫ってくる。
構わなかった。
来なさい!
弾き飛ばしてやる!
4号の脇腹が、私の肩に触れる。
私は、なおも直進を続ける。
更に幅を寄せようとした4号が、体をよろめかせた。
体に残った力を振り絞る。
ふいごのような呼吸。
どんなに無様な姿でも、構わない。
競走馬としての矜持。
体勢を立て直した4号。
横並びになる。
歓声。
肩をぶつけ合いながら、ゴール目掛けて疾駆する、二頭の馬。
4号の荒い呼吸。
焦りが、苦しさが伝わってくる。
負ければ、これまで経験したことのないような恥辱が待っているのだ。
負けたくないという気持ちは、痛いほど分かる。
でも、それは私も同じなのだ。
汗が、目に入った。
視界が滲む。
だからどうした。
晒し者として、1年生の前でマスクを外す私。
それを嘲笑う4号。
違う!
マスクを外すのはお前だ、4号!
歯を食いしばる。
運命を分ける、黒いビニールテープ。
ぼやけてはいるが、確かにそこにあった。
あと少し。
ラスト、3m。
2m。
1m。
先に通過したのは…
真っ赤な勝負服を見に纏った馬だった。
罰ゲームは4号―藤崎に決まった。
よほどショックなのか、あるいは精魂尽き果てたのか、その場でうずくまる4号。
荒い呼吸にあわせて背中が上下している。
「ここに、勝敗が決しました!一位は浜本・3号ペア!二位は、畑川・1号ペア!三位は、鳥越・4号ペアです!」
レース結果を告げる新田。
「そして、みごと予想を的中させたのは…大貫と優菜です!」
「やった!」
控えめに、しかし喜色を浮かべて小さくガッツポーズする優菜。
大貫はニンマリと笑みを浮かべていた。
「あーあ、ぜんぜんダメだった。3号、強すぎ」
苦笑しながら呟く内海。
「クソッ! もうちょっとだったのに!」
太ももを叩いて悔しがる溝口。
さっきまでのそっけない態度は嘘のように、彼女はレースに熱中していた。
「大貫と優菜は、このまま会場に残ってね。そして、残念ながら外してしまった二人は…申し訳ないけど、少しの間、外のロビーで待っててね」
「ほら、二人とも、早くついてきて」
畑川が呼びかける。
「いいなぁ、二人とも。後で誰だったか教えてよ。…えー、ダメなんスかぁ?」
畑川の言葉に、内海はガッカリと肩を落とす。
私の方を一瞥し、ドアへと歩いていく溝口。
残念そうにも見えるが、どこかホッとしているようにも感じられた。
『もうちょっとだったのに!』
さっきの、溝口の言葉。
恐らく、彼女の予想では私は3位だったのだろう。
私が負けると思ったのか。
あるいは、私が負けることを望んでいたのか。
私の正体に、気付き始めているのか。
そして、それを確かめるために…
「それじゃ、お二人はこちらの特等席へどうぞ」
新田が、的中者たちに呼びかける。
二脚のパイプ椅子。
緊張した面持ちの大貫と優菜、ぎこちなくその椅子に座る。
緊張と期待の入り混じった表情。
特等席に座る二人の正面には、スクリーン。
あそこに、映像が映し出されるのだ。


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