マナドリンカー ~尊厳を搾り取る者~ 第7話

前回のあらすじ
マルレートの中で日に日に高まっていく、被虐的な願望。
その願望を満たすため、彼女はとある計画の実行を決意をする。
その準備のために図書館を訪れたマルレートは、『儀式』に参加していたあのサキュバスと再会する。
サキュバスから聞き出した情報と、図書館で借りた書籍から得た情報をもとに、準備を進めていく。
そしてついに、マルレートはサキュバスを屋敷へと招く。
マルレートの倒錯した願望を知り、驚愕するサキュバス。
最初は戸惑い気味だったものの、次第にサキュバスとしての本性を剥き出しにしていく。
憧れの上級魔族に対し、被虐心を煽りながら、遠慮のない責めを繰り広げるサキュバス。
サキュバスからの屈辱的なセリフ、態度に導かれるように、マルレートはマナを杯の中へと吐き出してしまうのだった。

主な登場人物
マルレート・フォン・シュルツ
 吸血族の当主。
 自身がマゾヒストであることを認めた彼女は、更に願望をエスカレートしていく。
 抑えきれない倒錯的な欲求を満たすため、サキュバスを屋敷へと招いた彼女。
 そしてついに、マナを搾り取られるという屈辱的な快楽を知ってしまった。
 類まれな能力と可能性を持ちながら、破滅的な願望をも持ち合わせる彼女の行く末は…

ヴァレオン
 竜人族の有力者であり、魔王の側近。
 一族の悲願のため、研究へ没頭する彼は、やがてマルレートにとある願いを託す。
 
サキュバス
 マルレートから聞かされた、彼女のヒミツ。
 憧れの感情は驚きへと変わり、やがて捕食者としての本能が目覚めていく。
 そして、マルレートには話していない、もう一つの特技がサキュバスにはあった。
 記憶を操作された彼女だったが…


ベッドに腰かけながら、横並びに座るふたり。
もしよろしければ、と、ひざ枕を申し出るサキュバスだったが、マルレートはにべもなく断った。
萎縮する、サキュバス。
怒らせてしまった、と思ったが、そうではなかった。
このままサキュバスに身を委ねてしまうのが、怖かったのだ。

能力的にも立場的にも、マルレートの足元にも及ばないはずのサキュバス。
そんな彼女の言葉に、いいようのない昂りを覚えたのだ。
そして、マナを失う恐怖のなか。
彼女に身も心も委ね、甘えたい、守られたいと、思ってしまった。
そんな自分に、ゾッとするマルレート。
もしこのまま身を委ねてしまったら、本当に取返しのつかないことが起こってしまう。
そんな恐怖が、マルレートをそうさせたのだった。

マナの再取り込みは成功した。
ただ、マナが身体に完全に定着するまでは、じっとしていたほうがいい。
落ち着くまでの少しのあいだ、一緒にいてほしいと、サキュバスに頼んだのだ。
それに…
まだ、ミッションが残っている。
サキュバスの記憶を、操作しなければならない。
マナを絞り出してほしいなどという、恥知らずなお願い。
それに、サキュバスは気付いただろう。
マルレートが、マゾであるということに。
上級魔族として、吸血族の当主として、こんなことを知られたままにはできない。
威厳にも関わってくるし、マルレートの足元をすくおうとしている者も少なくないのだ。
他愛ない会話をしながら、サキュバスの記憶をすり替えていく。
『あこがれのマルレートからお茶会に誘われ、楽しいひと時を過ごした』サキュバスは、ウキウキと帰路についたのだった。

マルレートは戸惑っていた。
マナを搾り取られるという経験をすることができたのだ。
そして、こうして無事に能力を取り戻すこともできた。
サキュバスの記憶もすり替えたので、あの出来事を覚えているのはマルレートしかいない。
今考えても危険極まりない行為だったが、それでも計画は成功した。
しかし…
抗いがたい、体のうずき。
目を閉じると、あの時の光景が鮮やかによみがえる。
そして、サキュバスの表情、声、しぐさ。
まるで、愛し合う者どうしがするような、キス。
サキュバスの唾液が、口の中へ、そして体の中へと入っていく。
まるで、体の全てが性感帯になったかのように敏感になり…
マルレートのお腹に、サキュバスの手が触れる。
下級魔族に翻弄されながら、愛液を垂れ流す上級魔族。
『かわいいですよ、マルレート様…』
『ほら、ガマンしないで?ほらほら、マルレートさまのマナ、私に見せて?』
屈辱的な言葉ですら、興奮を高めていく。
いや、違う。
屈辱的だからこそ。
本来なら、自分の足元にも及ばないような相手に、まるで屈服するかのような屈辱。
血液が逆流し、はらわたまで煮えくり返りそうな、屈辱。
そんな屈辱にこそ、興奮していなかったか。
発情した一匹のメスとなって、サキュバスの前で無様な姿をさらす。
そんな自身の姿を思い出すたび、体が勝手に反応してしまう。
『まって、でちゃう、でちゃうからぁ…もうだめ…あっ…あっ、あっ…でちゃ…あっ…ああっ…!』
下級魔族相手に、情けなく懇願し。
それでも、容赦なくサキュバスは私のお腹を揉み続ける。
急速に、マルレートの中で何かが高まっていく。
堪えようもないほど膨れ上がったそれによって、せき止めていた堤防が決壊する。
熱い、熱い奔流が、マルレートの中から流れ出ていく。
その時の、焼けるような快感。
体も、脳も、焼き切れてしまうかのような、快感。
自分が、別の何かに書き換えられてしまうかのような、恐怖と、不安と、興奮と。
あんな快感を、快楽を、興奮を、屈辱を、知ってしまったら…
もう、決して忘れることはできない。
体が、心が、覚えてしまった。
だからこうして、何度も思い出してしまう。
そして思い出すたび、快感が、興奮が、脳に深く、深く刻まれていく。
あの屈辱を、また感じたい…
そう渇望している自分に気づき、ゾッとする。
頭から追い出そうとしても、いつの間にか考えているのだ。
マナがせり上げってくる感覚。
どれだけガマンしても、体の外へ出てこようとするマナを止めることはできず。
サキュバスの声に、手に、促されるようにして、マナが放出されていく。
その時の、恐怖、屈辱を、もう一度…
特殊な金属でできた杯。
己の体から流れ出たマナが、溜まっていく。
もしあれを、サキュバスに奪われてしまったら…
『こんなマナ…すごく…おいしそう…』
強烈な刺激が、脳を襲う。
マルレートの胸は高鳴る。
屈辱と恐怖とで胸が締め付けられ、子宮がキュンと反応する。
これほど、と思うほど、愛液が下着を濡らす。
あの言葉を思い出すたび、マルレートは自分が駄目になっていくのを感じた。
生まれた時から高い魔力を有し。
あらゆる高位魔法を習得し。
吸血族の当主として、かしずく眷属たちを従えて。
魔族の上級、下級を問わず、自身に向けられた憧れ、羨望、嫉妬。
誰も勝てなかった勇者たちを捕らえてから、その名声は一層高まった。
いずれは吸血族当主としてだけでなく、更なる地位も、名誉も得られる。
そんなウワサも耳に入ってくるようになっていた。
ウワサではなく事実になるほどの能力も、立場も、今のマルレートにはあるのだ。
ただ、あくまで今のマルレートなら、だ。
あの杯に溜まったマナ。
あれを、サキュバスに奪われてしまったら…
想像の中のサキュバスが、イジワルな笑みを浮かべる。
『マルレート様の魔力がたっぷりと溶け込んだマナ、私が飲み込んであげますね。マルレート様はそこで、ご自身のマナが奪われていくのを、指を咥えてご覧になっていてくださいね』
そう言って、杯を口元に近づける。
『マルレート様のマナ、いただきまーす』
コクコクと喉をならし、杯の中のマナをお腹に収めていくサキュバス。
私の大切な、大切なマナが、奪われていく。
魔力が、高位魔法の数々が、プライドが、立場が、可能性が…
『あー、美味しい。それになんだか、体中に力がみなぎってきて…すごい、これがマルレート様の力…』
あぁぁ、私のマナが、力が、サキュバスに取り込まれていく…
もう、取り戻せない…
取り返せない…
『まだ、杯に半分残ってますけど…これも、飲み干して差し上げますね。どうですか、マルレート様。悔しいですか?返してほしいですか?』
か、かえせ、私のマナ…
『でしたら、私にお願いしてください。かえせ、ではなく、かえしてください、って。言えますよね?』
だ、だれが、そんなこと…
『言えないのですか?なら、しかたありませんね。このマナは、私がいただきます』
ま、まて、まって、まってください…
か…か…かえして、ください…
サキュバスが、可笑しそうに笑っている。
『マルレート様が、私に、かえしてください、ですって。マルレート様は上級魔族の中でも、とくにお強いお方。それに、地位も名誉もお持ちで…そんな高貴なお方が、一介の下級魔族に過ぎない私に、そのような言葉を。恥ずかしくないのですか?悔しくないのですか?上級魔族としてのプライドは、お持ちではないのですか?』
嘲るような、蔑むような目。
『そのような、上級魔族にふさわしくないお方には、とてもマナは返せません。代わりにこの私が、マルレート様に代わって上級魔族になってあげますね。あなたは下級魔族として、上級魔族の私に仕えるのです』
マルレートの頭の中で、脳内麻薬が噴出する。
脳細胞の一つひとつが、侵されていく。
妄想というには、あまりにも強すぎる刺激。
劇薬が、誇り高き上級魔族の脳を上書きしていく。
このままでは、本当にダメになってしまう。
そんな不安や焦りすら、興奮へと変わってしまう。
殺してやる!
くそっ!
私を誰だと思っている!
マルレートだぞ!
勇者たちですら敵わないこの私に向かって!
くそっ!
耐えがたい情欲が、身を焦がす。
それを少しでも冷ますように、マルレートは自身の萌芽を刺激した。
秘部から、発情の証が溢れ出てくる。
右手を愛液でべとべとにしながら、左手で自身のお腹をもみほぐす。
固く目を閉じながら、一心不乱に手を動かし続ける。
冷静沈着で気品のただよう、吸血族当主としての面影はなく。
生まれてから数百年という歳月の中で、これほど乱れたことは一度としてなかった。
その自分の有様に、焦り、不安、いら立ちを抑えきれない。
呪いのことばを吐きながら、何度も、何度も身体を震わせる。
どうにかしなければ。
こんな姿、誰にも知られたくない。
知られてはいけない。
知られたら、最期。
他の上級魔族や下級魔族、自身の眷属たちから寄せられる視線。
蔑むような視線。
好奇な視線。
嘲るような視線。
憐れむような視線。
これまで築いてきたメンツを失い、足元をすくわれ…
こんなこと、やめなければ…
そう思っても、手を止めることができない。
憎きサキュバスを思い浮かべ、周囲の者たちの視線を思い浮かべ。
屈辱の炎に身を焼かれながら。
何度も、何度もマルレートは身体を震わせるのだった。
かつての勇者たちの、ありさま。
少し前までのマルレートなら、そんな彼女たちをあざ笑うことも、蔑むこともできた。
しかし、今は…
下級魔族にすらいいように扱われ、歯向かうこともできない彼女たちに対して、無性に腹立たしさを覚えることがある。
プライドはないのか。
それでも、かつて魔族たちを恐怖に陥れた勇者なのか。
そんなことを考えている自分に気づき、驚く。
そんなことを考える理由を、マルレートは考えたくはなかった。
どうせ、愉快なものではない。
しかし、マルレートは分かっていた。
彼女たちのありさまを通して、見ていたのだ。
魔族としての絶大な能力と地位を誇る自分の末路を。
マナを奪われ、能力も地位も失った自分。
かつて、下に見てきた者たちに見下され、あの元勇者たちのように慰み者にされる。
そんな未来を想像し、怯えているのだ。
己の意思とは裏腹に、体が反応する。
まるで、そうなることを望んでいるかのように。


数日後、ヴァレオンからの書簡が届いた。
そこには『研究がひと段落した』としたためられていた。
ただ、『研究室から離れることができず、こちらまで来てほしい』とも書かれていた。
いずれにせよ、ようやくヴァレオンと魔石の話ができるのだ。
サキュバスとの一件以来、惚けつつあったマルレートの頭が、少しずつ本来の思考力を取り戻してきた。
マルレートの頭の中には、魔石の様々な活用方法が浮かんでいた。
ヴァレオンを説得することができれば、魔石の入手経路についても相談に乗ってくれるのではないか。
現在、吸血族の財政は潤沢とまではいかないものの、ある程度の余裕はある。
それに、投資しただけの見返りは十分に考えられるのだ。
「おや…?」
書簡に書かれていた、研究室の場所。
デスハイムからやや離れた地方都市に、ヴァレオンの屋敷はあった。
しかし、ヴァレオンが指定した場所は、そこではなかったのだ。

デスハイムから北に200里ほど離れた場所に、竜人族の集落がある。
マルレートは単身、集落へと訪れていた。
部下たちはついてこようとしたが、マルレートは止めた。
ヴァレオンからの書簡には、一人で来てほしいと書かれてあったのだ。
数百年生きてきたマルレートにとって、初めて訪れる場所だった。
竜人族たちからマルレートに注がれる、視線。
敵意は感じられないが、そこかうかがうような目でこちらを見ている。
その中に、それはひっそりと建っていた。
「遠路はるばる、悪かったな」
出迎えたヴァレオンのほか、中には数人の竜人族。
みな、白衣を着ていた。
研究所の中へ案内される。
壁に沿って、書棚が並んでいる。
いずれも、難しそうな本が入っていった。
室内の一画にある応接テーブル。
そこに、向き合う形でヴァレオンとともに座る。
竜人族の一人が、テーブルの上にお茶の入った湯呑を二つ置いた。
「どうだ。魔石の扱いには慣れたか?」
「ええ、一応は…映像を記録したり、記録した映像を観たりといったことは、不自由なくできるようになったと思います」
マルレートは、少しいたたまれなさを感じながら、言った。
確かに、記録の魔石は自在に扱えるようになった。
問題はその使い方だった。
サキュバスから受けた、屈辱的なできごと。
マゾヒストとしての倒錯した欲求を満たすために記録した映像。
いただいた貴重な魔石を、自慰行為の道具に使っているなど、口が裂けても言えなかった。
そんなこととはつゆ知らず、ヴァレオンは満足げにうなずいた。
恥ずかしさと申し訳なさとで、マルレートは彼を直視できなかった。
「それで、私に会いたがっている、と聞いたが?」
「え、ええ。実は…」
マルレートは、自身がかねてより考えていたことを伝えた。
魔石の、軍事的な利用。
あるいは、日常面での活用。
魔石の持つ可能性は、計り知れなかった。
記録の魔石ひとつとっても、これまでの常識が一変するといっても過言ではない。
魔石の種類は、それこそ限りないと思えるほど存在するのだ。
マルレートは、熱く語る。
しかし、ヴァレオンの反応は芳しくない。
「卿の考えは、分かった」
マルレートがひとしきり語ったあと、ヴァレオンはそっと口を開いた。
「魔石のことを、そこまで理解してくれたことに感謝する。しかしな…」
言いながら、テーブルに置かれた湯呑を手に取る。
それを口につけ、ずずっと音を立てて、すすった。
普段は、あまり年齢を感じさせないヴァレオンだが、そのしぐさはどこか年寄り臭さを感じさせた。
「あまり大きな声では言えんが、我々竜人族は、魔族の発展をそこまで望んではいないのだよ」
「それは…」
「確かに、我々竜人族は魔族だ。かつて、竜人族の王が魔王様に敗れて以来、我々は魔王様に忠誠を誓ってきた。現に、私は魔王様に認められ、おそばにいることを許されている。重用されていると見ている者もいるだろう。しかしな…」
苦悩の表情が浮かぶ。
「魔王様は、我々を、竜人族を、心から信用はしておらん。忠誠を誓っているとはいえ、もともとは敵対関係にあったのだからな。重用はしつつも、我々が一定以上の力を持つことを、魔王様は許さなかった」
何と言っていいか分からず、マルレートも湯呑を手に取った。
不思議な味がした。
芳醇だが、ハーブティーとは違う。
どこか、ホッとするような香りだった。
「この地で採れる薬草を煎じたものだ。ちょっとクセがあるかもな」
「そうですね。確かに。でも、嫌いではないです」
「そうか」
ふっと笑う。
「私の息子は、親のひいき目にみても、そこそこの力を持っていたと思う。実際、魔王様に認められて、魔王軍の上級将校として勤めていたのだ。ただ…どちらかといえば研究者向きというか、戦闘に向いた性格ではなかったな。本人も、気負っていたというか、無理をしていたのかな。いや、私が無理をさせていたのか」
遠い目をしながらヴァレオンが話す。
突然息子の話が出てきて、マルレートは少し戸惑った。
少しの間があってから、再びヴァレオンが口を開く。
「ある日、魔王様から奴へ命令が下った。勇者たちを生け捕りにするように、と。それも、たった一人で、だ。卿も知っているだろうが、奴の前にも何人かが刺客として放たれた。同じように一人で勇者たちに挑み、散っていった」
再び、沈黙が訪れる。
「刺客として放たれたのは、いずれも魔族となって日の浅い我らか、魔王の不興を買った一族の者たちだ。そうやって、一族の魔王様への忠誠心を試しているのさ。息子への命令を知った時、無茶だと思った。無茶だと分かったうえで、魔王様は命を下したのだ。私は魔王様のそばにいながら、何も言えなかった」
自分は何を聞かされているのか。
ヴァレオンは、ただ昔話をしているという訳ではないのだろう。
それは、マルレートも何となく感じていた。
「デスハイムの屋敷ではなく、ここへ卿を呼んだのには、理由があるのだ」
とても大事なことを、彼は、ヴァレオンは話そうとしている。
「これからする話の前に、一つ、お願いしたいことがある」
「どのようなことでしょうか」
竜人族が、一つの木箱を持ってきた。
丁寧な装飾をされているが、かなり昔からあるものなのかもしれない。
とても年代を感じさせる箱だった。
それを受け取る。
「開けてみてくれ」
中には、紫色の、半透明の石が入っていた。
「魔石、ですか」
「その中に込めてある魔力を、感じ取ってもらいたい」
「はぁ…」
魔石を手に取る。
記録の魔石に似ているが、なんとなく放つエネルギーが違うようにも思う。
「記録の魔石ではないが、まあ、似たようなものさ。使い方は記憶の魔石と変わらぬ。難しく考えず、もし何か感じ取れたことがあったら、そのまま教えてくれ」
「分かりました」
魔石を軽く握り、目を閉じる。
何かが、体の中に流れ込んできた。
誰かの記憶か。
頭に浮かんでくる、聞き覚えのない言葉。
この魔石を扱うための、呪文のようなものか。
目を開ける。
ヴァレオンと、他の竜人族もマルレートを見つめていた。
「吸収の、魔石…」
頭に浮かんだ言葉を、口にする。
竜人族たちが、驚愕の表情を浮かべた。
魔石を扱うための、術式。
術式を発動させるための、詠唱の言葉。
「これは…」
「ヴァレオン様…」
竜人族が、顔を見合わせる。
「決まりだな」
ヴァレオンがつぶやいた。
「卿に聞きたいと思っていたことがある。何故、あの『儀式』に立ち会いたいと思ったのか。きわめて真面目な質問だ。本心を、聞かせてくれないか」
「私は…」
ヴァレオンの、真剣な表情。
どこか、祈るような。
何か、大きな流れに巻き込まれそうになっている。
それが、何なのかは分からない。
自分の人生が、大きく変わってしまいそうな、何か。
マルレートの回答次第では、それを回避することもできただろう。
「私は、知りたいと思ったのです。魔王様の強さの秘密を。強者からマナを絞り出し、それを取り込むことで更なる強さを得る。もし…もしそれが、私にもできるなら…」
誰にも話したことのないことだった。
話せるわけがない。
自分も魔王様のように、強者のマナを取り込む。
そしていずれは魔王様を超える存在になりたいなどと。
「しかし、それは不可能でした。サキュバスのような適性がなければ、マナを取り込むことはできないのだと。無理に取り込もうとすれば、命を落としかねないのだと、最近知りました。もっと早く調べていれば…いや、調べてみるまでもなく、考えてみれば当たり前のことのような気がします」
自嘲気味に笑う。
しかし、ヴァレオンは真剣な顔のままだった。
「そうだと思っていた。いや、そうであってほしいと」
「まあ、マナを取り込むなどという、都合のいい…」
「そのことではない。卿の、目的のことさ」
ニヤリと笑うヴァレオン。
吸い込まれるような笑顔だった。
「ここ数か月…いや、数百年か。私が研究してきたことは、そのことと関係があるのだよ」
「どういう、ことでしょうか」
「サキュバスでなくても、マナを、能力を取り込める、としたら?」
小声で、ヴァレオンがそっとささやく。
子どものような、いたずらっぽい笑みを浮かべて。
「そ、それは…それはいったい、どういう…」
「これはきわめて、きわめてデリケートな話だ。卿の人生を、我々竜人族の命運を左右しかねないほどの、な。これから卿に話すことは、他言無用だ。決して漏らすことは許されないぞ。できるか?」
「それは…」
「知った以上、裏切りは許されない。もし誓いを破るようなことがあれば、我々は決して卿を許さない。どんな手を使ってでも、卿に責任を取らせる。ただ、もし誓いを守るのなら…我々は、竜人族は全力で、卿をサポートする」
「そんな…」
「卿の一生を左右することだ。無理にとは言わん。いきなりそんなことを言われても、困るとも思う。しかし、もし…」
「分かりました」
ヴァレオンが目を見開く。
「近います。ヴァレオン殿」
「これから、卿と我々は運命共同体だ。感謝する」
差し出された右手を、マルレートは握りしめた。

「我々のラボへ案内しよう」
「ラボ、ですか」
周囲を見回しても、それらしいものは見当たらない。
地下にあるのか。
それとも、別の建物か。
「こっちだ」
立ち上がり、書棚の並んだ一画へと歩いていく。
一つの書棚の前で、立ち止まる。
書棚から、2冊の本を取り出すヴァレオン。
そのうちの1冊を、マルレートへと手渡した。
手に持った本を開いたあと、ヴァレオンが聞きなれない言葉をつぶやく。
と。
目の前の書棚が、壁にめり込んでいく。
奥にめり込んだあと、左側へとスライドしていく。
壁があると思われた場所は空洞になっており、下へと続く階段が現れた。
竜人族の一人が、2つのコップを持ってきた。
中には、濃い緑色の液体が入っていた。
1つのコップを受け取ったヴァレオンが、一気に呷った。
コップを空けたヴァレオンが、マルレートも飲むように目で促す。
先ほどの薬草だろうか。
ヴァレオンのように、一気に呷る。
粘度の高い液体が、喉を流れていく。
先ほどのお茶ではない。
何か、得体の知れないものが、体の中へと入っていく。
「まあ、美味いものではないよな。ただ、これから先に進むためには必要なものだ」
「分かりました」
コップを竜人族に返しながら、マルレートは答える。
「それと、卿に渡したその本は、決して離すなよ。もし、中で落としでもしたら、異次元に迷い込んで一生出られなくなるぞ」
「異次元…?」
冗談かと思ったが、ヴァレオンの真剣な表情を見るに、本気で言っているらしかった。
ヴァレオンが、階段を下りていく。
慌てて、マルレートも後に続く。
「お気をつけて」
竜人族の声を背に受けて、一歩ずつ、下っていく。
階段は、せいぜいすれ違えるほどの幅しかなかった。
壁にはめ込まれた正方形のパネルから、淡い光が放たれている。
光は一色ではなく、下りていくにつれ、水色や黄色、オレンジ色など、少しずつ色を変えていく。
どこか、幻想的ですらあった。
階段を下りきった場所は通路になっており、先は行き止まりだった。
ヴァレオンは手に持った本を開き、再び何かをつぶやいた。
突き当りの壁が、ぐにゃりと歪む。
歪んだ中心部分に小さな穴が開き、それが少しずつ大きく拡がっていく。
穴の先は、何も見えないほどの暗闇が拡がっている。
そこへ、ヴァレオンは入っていった。
暗闇に入った瞬間、ヴァレオンの身体が消えた、ようにマルレートには見えた。
どれだけ目を凝らしても、ヴァレオンは見えない。
暗闇に、手を入れる。
入れた先が、まるで消えてしまったかのように、見えなくなる。
なんなのだ、これは。
気味が悪かったが、ヴァレオンの後に続くよりほかなかった。
漆黒の闇へと足を踏み入れた瞬間。
マルレートの体は、全く別の場所へと来ていた。
真っ白な壁に囲まれた空間が拡がっている。
いくつかの書棚と、実験器具と思われるものが載ったテーブル。
収納棚にはシールが貼られており、魔石の名前がいくつも記載されていた。
また、テーブルの上には光る板のようなものがあり、数字や不思議な模様が浮かんでいる。
時間とともに、数字や模様は変化していく。
そんな空間の中、何人もの竜人族が慌ただしく動いている。
見慣れないものばかりが並ぶ空間。
しかし、何よりも目を引いたのは、空間の中央に浮かぶ、巨大な物体だった。
大きさは、マルレートの身長ほどあるだろうか。
かすかに光を放つそれが、4つ、ぷかぷかと宙に浮いていた。
「巨大魔石という」
4つの大きな石の前に、ヴァレオンは立っていた。
「巨大、魔石…」
呆気にとられるマルレート。
「こんな、大きな魔石があるのですか?しかも、4つも…」
「大きいものは、これの2倍以上あるものもある」
魔石自体はどれも紫色をしているが、それぞれ放つ光の色が、かすかに違うように感じる。
「私の人生の半分は、魔石の研究だったと言っていい」
どこか遠い目をしたヴァレオンが語る。
「私は、いや、竜人族は、悲願のために、これまで耐えに耐えてきたのだ」
魔石が放つエネルギーに圧倒されそうになる。
しかし、どこかで感じたことのあるエネルギーだと、なんとなくマルレートは思った。
「魔王城の地下で行われた『儀式』。そこで、サキュバスによって勇者たちから奪い取ったマナのエネルギー。勇者の、戦士の、神官の、魔法使いの力。それを、この魔石の一つひとつに閉じ込めてある」
「…は?」
ヴァレオンの言っていることが理解できず、思わず聞き返してしまう。
「分からんか。そのままの意味よ。魔王がマナを取り込むまでのわずかな時間を使って、エネルギーをこの魔石へ写し取っていたのだ」
「そ、そんな、そんなこと…」
できるわけがない。
しかし…
巨大魔石が放つエネルギーには、確かに覚えがあった。
「でも…本当にそんなことが…」
「100%、完全に写し取れているわけではないかもしれん。これほど強力なエネルギーで試みたことはなかったしな。十分な時間があったわけでもないし。しかし、ほぼ写し取れているはずだ」
勇者たち4人分の力。
「触れてみてくれ」
「よろしいのですか?」
頷くヴァレオン。
4つのうち、1つの巨大魔石にそっと手を伸ばす。
記録の魔石から映像を取り出す要領で、魔石の放つエネルギーにアクセスする。
と。
マルレートの中に、膨大な情報が流れ込んでくる。
類まれな魔力を持って生れ落ちた少女の記憶。
周囲から恐れ、疎まれながら過ごした幼少期。
人里を離れ、森の奥で暮らす祖母のもとで、研究と修行に明け暮れる日々。
青春と呼べる時期は彼女にはなく、代わりに高位魔法の数々を己のものへとしていく。
これは、魔王使いの記憶か。
彼女の習得した高位魔法の術式が、彼女が抱き続けてきた感情が、マルレートの中へ流れ込んでくる。
「これは…こんなことが…」
魔石から、手を離す。
「これらの魔石のエネルギーを、卿に取り込んでもらいたい」
「私が…」
「全てを取り込むまでに、どれほどの歳月が掛かるかは分からない。1年か、10年か、あるいはそれ以上かもしれん」
「しかし…なぜ、私なのですか?私でなくても、竜人族の方に、例えばヴァレオン殿でも…」
「それができればいいが、そうもいかんのだ」
「それは、どういう…」
「適性というやつさ」
「適性…?」
「残念ながら、我々竜人族には、その適正がないらしい。つまり、ある一定のところまでしか、エネルギーを取り込めないのだ」
「でも、だからといって、私にその適正が…」
「ここに来る前、魔石を一つ触ってもらっただろう?あれは、確かに吸収の魔石だった。そして卿は、その中から魔法の術式を読み取ることができた。詠唱の言葉も」
「それは…」
「我々には、そこまではできない。せいぜいが、吸収の魔石であることを読み取るくらいのものさ」
その時はじめて、マルレートはなぜ自分がここに連れてこられたのか、本当の意味を理解した。
「なぜ、卿にそれができるのかは分からない。吸血族という、ある意味では他者のエネルギーを取り込むという種族が関係しているのか。あるいはまったく関係なく、たまたまなのか。いずれにせよ、我々竜人族は、卿に掛けることにしたのだ」
「掛ける…私に?」
「魔王の軍門に下ってより、我ら竜人族の悲願でもある。魔族として魔王に仕え、既に数百年の歳月が流れてしまった。そして今もなお、魔王に掛けられた呪いから、我々は逃れられずにいる」
ヴァレオンの目が、じっとマルレートを見つめている。
いや、ヴァレオンだけではなかった。
そこにいる竜人族全員の視線が、マルレートに注がれていた。
「魔王を、竜人族の敵を、我々とともに…葬り去っていただきたい」
「私が、魔王様を…」
「そうだ。そして現魔王に代わり、新たな魔族の王として、卿が…マルレート殿が、全ての魔族の頂点として君臨するのだ」

屋敷へと帰ってきたマルレート。
「案ずるな。商談の話をしてきただけだ」
心配そうな顔をして出迎えた部下たちに、マルレートは声をかけた。
竜人族は、他の魔族とは明らかに壁を作っている。
そのため、何を考えているのか分かりづらく、彼らを警戒している者も少なくないのだ。
自室で一人になったあと、机に腰かけながら、集落での出来事を思い出す。
竜人族に、あのようなテクノロジーがあったとは…
『魔王を、竜人族の敵を、我々とともに…葬り去っていただきたい』
こんなこと、他の魔族に知られたら…
竜人族と魔王との確執。
何かあるのだろう、とは思っていた。
しかし、自分がそれに巻き込まれることになるとは、想像すらしてこなかった。
ヴァレオンは、運命共同体と言った。
ラボへと向かう階段の前で、飲まされた緑色の液体。
その正体を聞かされたマルレートは、背中に冷や汗が流れた。
裏切り者は許さない。
誓いを破った瞬間、生まれてきたことを後悔するほどの苦しみに襲われるのだ。
五感を失い、死ぬこともできないまま、永遠とも続く激痛を味わいながら、やがて死に至る。
それを知ったマルレートは、しかし怒る気にはならなかった。
一族の、竜人族の命運が掛かっているのだ。

絶対的な存在として魔族の頂点に君臨する、魔王。
全身を包む黒いローブから、陽炎のように立ちのぼる魔力。
指先一つで、この世から消し去られてしまうかもしれないという、恐怖。
そんな存在に、いや、それ以上の存在に、私がなれる日が来るのだろうか。
不安と、期待と。
机の上に出した書類をしまうため、引き出しを開ける。
「あっ…」
記憶の魔石が入った、木箱。
それを、じっと見つめるマルレート。

数分後、木箱から魔石を取り出し、映像を『楽しむ』マルレートの姿がそこにはあった。
こんなことで、本当に魔王になれるのだろうか。
被虐的な絶頂の余韻に浸りながら、そんなことを自嘲ぎみに考えるのだった。

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