ポニーガールとご主人様 第三章(1)忠犬アッキー

4度目のレースの日。
これまでのレースと大きく異なる点が2つ。
1つは、藤崎という新たな参加者がいる点。
そして、もう1つは…

私と新田、畑川は、とある場所に来ていた。
オフィス街にあるビルの1つ。
どこか不安げに周囲を窺う畑川。
対照的に、堂々と前を歩く新田。
帽子を目深にかぶり、マスクで顔を隠した私がふたりの後に続く。
見上げるほど高いビルへ入っていく。
この建物の一室が、今回のレース会場だった。

洗練された、大人びた空間。
ロビーには、商談中と思われるビジネスマンの姿が。
どこか、場違いな場所へ迷い込んでしまったかのような、気おくれを感じながら。
ふかふかな絨毯の上を歩く。
エレベータに乗り、目的の階層まで上がっていく。

「そろそろ、顔隠したほうがいいんじゃないですか、センパイ?」
新田に言われ、慌ててバッグから全頭マスクを取りだす。
マスクを外し、全頭マスクを被る。
ふっと、新田が笑う。
蔑みともとれる笑みに、自尊心がチクリと痛む。

エレベータが止まり、ドアが開く。
廊下を見渡すが、私たち以外、誰もいない。
少し歩いた先に、彼女はいた。
ソファにゆったりと腰を下ろした藤崎。
スマホから私たちに視線を移し、片手を上げる。
「よっ。待ってたよ」
新田がお辞儀をする。
畑川も、ぎこちなく片手を上げる。

藤崎の視線が、私へと移る。
どうしていいか分からず、思わず頭を下げる。
後輩にお辞儀をする先輩。
藤崎が、ニヤッと笑った。
舐められている。
軽んじられている。
藤崎に。
体が、カッと熱くなった。
悔しさと、それ以上の情けなさ。

後輩に見くびられているから、というのもある。
それ以上に、藤崎の、ご主人様としての資質を探している自分が、情けなかった。
無意識に想像してしまう。
私に馬乗りになる、藤崎の姿。
罵りながら、私の尻を叩く、藤崎の姿。
舐めた態度を取る後輩の前で跪き、這いつくばる、屈辱と興奮。

これまで、藤崎に脅威を感じたことは一度もなかった。
競技者としても、人としても、だ。
言い方は悪いかもしれないが、自分にとっては取るに足らない存在だった。
でも…
マゾヒストとしてのフィルター越しに見る彼女は、そうではなかった。

これまで、藤崎をそういう目で見たことがなかったからだろうか。
いや、違う。
明らかに彼女は変わった。
どこか、サディストとしての風格すら漂わせる藤崎。
その要因は、きっと…

『三井センパイ…いや、これからは章乃ちゃんって呼ぶね。いいでしょ?』
『これからご主人様が、ペットとしての立場をみっちりと教えてあげるから。よろしくね、章乃ちゃん?』
3度目のレースの後。
憧れの先輩から、ペットへと成り下がってしまった、憐れな同期。

藤崎にからかわれ、顔を真っ赤にしながら凄む三井の顔が浮かぶ。
この一か月、彼女は藤崎からどんな扱いを受けてきたのだろうか。
藤崎が変わったのだとしたら、間違いなく、そのきっかけは三井だ。

先輩を屈服させ、サディストとして成長していく藤崎。
後輩にプライドをへし折られ、屈辱とともに堕ちていく三井。
憧れだった先輩を養分として、高みへ登っていく藤崎と。
自尊心も、能力も、輝かしいはずの未来も、取り巻きのひとりに過ぎなかった後輩に吸われ、落ちぶれていく三井。

あまりにも対照的なふたり。

実際は、分からない。
今の三井がどうなっているのか。
分かりようがなかった。
この一週間、三井に会っていないのだ。
部活はおろか、大学にも来ていないようだった。

「ついてきて」
立ち上がり、歩き始める藤崎。
その後に続く、ふたり。
私も、慌てて後を追う。
藤崎が立ち止まったのは重厚な扉の前。
扉の横には研修室と書かれたプレート。
扉を開ける藤崎。
会釈をした新田が、部屋へと入っていく。

「へえ、いいところじゃないですか」
新田が部屋を見回しながら言う。
「でしょ?章乃ちゃんち、金持ちだからさ、使えるものは使ってあげようと思って」
名家の子女である三井章乃。
部屋の使用料は、彼女に出させたのか。
あるいは、この建物自体、彼女の親と関係のあるものなのか。

「ほら、麻友ちゃんと、そっちのキミも入りなよ」
「う、うん…」
藤崎に促され、室内へ入る畑川。
私も、その後へと続く。
藤崎の横を通り過ぎようとした時。
藤崎と目が合った。
こちらを見透かしたかのような目。
口もとに、笑みを浮かべている。
バレている?
いや、バレてはいないはず…

今日だって、この部屋に来る前から、全頭マスクを被ってきた。
服装でバレないよう、わざわざ服も、靴だって、新しく買ったのだ。
部活中も、藤崎とのやりとりで、なんら疑われているような気配もなかった。
大丈夫。
大丈夫なはず…
暴れ始める心臓を、なだめる。

「あれ?三井センパイは?まだ来てないんですか?」
「あぁ。章乃ちゃんなら、もう来てるよ。別室で待機させてるの」
待機させている、という言い方が引っかかった。
それは、他のふたりも同じだったらしい。
そんな私たちの反応が面白いのか、藤崎がイタズラっぽい笑みを浮かべる。

「連れてくるから、ここで待っててね」
こみ上がる楽しさを抑えきれないといった様子の藤崎。
そう言って、部屋の奥へと消えていく。

イスに座りながら、藤崎が来るのを待つ。
それにしても。
部屋を改めて見回す。
ざっと100人は入れるだろうか。
外のプレートには、研修室と書かれていたが…

机は全て部屋の端に寄せてあった。
がらんと空いたスペースに、イスが数脚。
そして、ポールのようなものが数本ずつ、各所に置かれている。
部屋の奥には、スクリーンが壁から下げられていた。
天井につり下げられたカメラのようなものは、もしかするとプロジェクターだろうか。

「お待たせー」
声のしたほうをふり向く。
部屋の奥。
乗馬服を着た藤崎の姿があった。
こちらに歩いてくる。

よく見ると、手にロープのようなものを持っていた。
なんだろう、と思った直後。
私は息をのんだ。
ロープの先につながったもの。
藤崎に続き、ゆっくりと近づいてくる。

2足で歩くことを禁じられているのか。
床に両手と両ひざをつきながら前へと進む、ジャージ姿の女性。
悔しいのか、それとも恥ずかしいのか。
その顔は、真っ赤に染まり…
藤崎にリードをひかれ、ただ前の一点を見つめながら、這い進む。

それはまるで、散歩をする飼い主とペットのようでもあり。
SMの女王様と、そのドレイのようでもあった。
いや、そのものではないか。
背徳的で、淫靡な世界。
見てはいけないものを見てしまったと思った。
でも、目が離せない。
床を這う彼女の感情が、自分に流れ込んでくるかのようだった。

首輪をつけ、リードを引かれながら這う、という屈辱。
リードを握っているのは、彼女にとっては取り巻きのひとりでしかなかったはずの女の子。
そしてその姿を、私たちに見られているという恥ずかしさ。
情けなさ、惨めさ。
でも…
おそらくは、それだけではない。
私には、分かる。

いや、私だけではない。
きっと、ここにいる全員が分かっている。
身を焦がすような羞恥心で顔を真っ赤にしつつも。
彼女は、受け入れたのだ。
藤崎から、ペットとして扱われること。
藤崎に、逆えないということ。
弱みを握られているとか、脅されているから、ではない。

自身がマゾであること。
藤崎から受ける屈辱的な扱いに憤りつつも、本心ではそれを求めていること。
前回のレースの時には残っていた威厳のようなものは、もう感じられない。
カースト上位に位置していた時の彼女にはもう戻れない。
彼女の表情を見れば分かる。

己がマゾヒストであることを認め、サディストに屈服したのだ。
悔しさも、惨めさも、恥ずかしさも、全て被虐的な刺激へと変換されてしまう。
それを、必死に隠そうとしている。
かつてのライバルに、そして、自分をこんな目にあわせた後輩に見られているから。
必死で、無駄な抵抗。

わずかに残った、かつて彼女だったものが、薄皮となって覆い隠している。
それも時間の問題だった。
いずれは彼女の威厳のように消えてしまう。
その時、彼女はマゾとしての顔を隠せなくなる。
たとえそれが、彼女の取り巻きたちの前であってもだ。

「ほら、章乃、みなさんに挨拶なさい」

私たちの目の前まで来た藤崎。
足もとにいる三井に促す。
恥ずかしいのか、三井の目が泳ぐ。
ただ、それでも。
ゆっくりと、前脚を上げる。
後ろ脚でつま先立ちになり、ひざを曲げる。
蹲踞のような姿勢で、前脚だけ、胸もとでそろえる。
そして。
「わ、わん…」

消え入りそうな声。
でも、確かに聞こえた。
「そんな小さな声じゃ、聞こえないでしょ?もう一回!」
藤崎の叱責。
三井。
目が合った。
が、すぐに顔を伏せてしまった。
あの、三井が。
先日までの誇り高い彼女は、どこにもいない。

「三井センパイ、なんです、それ?」
堪えきれないといった風に笑いながら、新田が問いかける。
問いには答えず、うなだれる三井。
「この子はもう、ヒトじゃなくてペットになったの。私の犬にね。だから返事も『ワン』だけ。そうだよね。章乃?」
「わ、わん」
「ちょっと、ちょっと、三井センパイ!どうしちゃったんですか?この間までのかっこいい三井センパイは、どこにいっちゃったの?」
新田のからかいにも、反抗のそぶりすら見せない。

「ねえ、新田。その子はもう三井センパイじゃないの。章乃ちゃんて、呼んであげて」
「章乃ちゃんねぇ…」
三井を眺めながら、つぶやく新田。
「あ、そうだ!」
何かを閃いたのか、三井の前でしゃがみ込む。
三井の顔を見つめながら…

「ねえ章乃ちゃん。私は章乃ちゃんのこと、アッキーって呼んでいい?」
三井章乃(あきの)。
名家の子女として生まれ、育てられてきた彼女。
部内でも多くの後輩たちに慕われ、私のライバルでもあった。
大学卒業後の将来も、約束されたようなものだった。
それが…

「わん…」
自信なさげに新田を見上げ、返事をする。
「やったぁ!」
無邪気に喜ぶ新田。
「アッキー、お手!」
新田が、右手を差し出す。
その手に、おずおずと、自身の右前脚を乗せるアッキー。
「おかわり!」
右前脚をおろし、左前脚をのせる。
「よくできました!エライぞ、アッキー!」

アッキーの頭を撫でる、新田。
もはや、完全に犬としての扱いだった。
彼女の両親が見たら、卒倒してしまうかもしれない。
大切に育ててきた娘が、まるで犬のように…
それも、中学生のような見た目の少女に、犬の芸までさせられているのだ。

あくまで、仕方なくやらされている、といった体の三井。
興奮しているのが、丸分かりだった。
「レースの前に、みんなに観てもらいたいものがあるの」
そう言って、藤崎が三井の前に何かを置いた。
リモコンだった。

「アッキー。キミがどんなふうにして今の姿になったのか、みんなに観てもらおうね?」
「わ、わん…」
「よかったね。これを観られるの、楽しみにしてたもんね?」
「わん…」
三井が、唇を噛む。
「じゃあ、リモコンのボタンを押しなさい」

藤崎に命じられた三井。
三井の右前脚が、リモコンへ伸びる。
葛藤があるのか、なかなか、ボタンを押さない三井。
出した前脚を引っこめたり、また出したりを繰り返す。
そんな様子を楽しそうに眺める新田。
しかし、藤崎は違った。
なかなかボタンを押さない三井に、苛立っていた。

「言われたことは、すぐにやる。センパイが私に教えてくれた言葉ですよ?」
三井が、上目遣いで藤崎を見る。
泣きそうな顔をしながら、うなずく。
「ご主人様に恥をかかせるんだ?ふぅん、そうなんだぁ」
藤崎のつぶやきに、何かを感じたのか。
三井は慌てて、リモコンのボタンを押した。

コメント