4度目のレースの日。
これまでのレースと大きく異なる点が2つ。
1つは、藤崎という新たな参加者がいる点。
そして、もう1つは…
私と新田、畑川は、とある場所に来ていた。
オフィス街にあるビルの1つ。
どこか不安げに周囲を窺う畑川。
対照的に、堂々と前を歩く新田。
帽子を目深にかぶり、マスクで顔を隠した私がふたりの後に続く。
見上げるほど高いビルへ入っていく。
この建物の一室が、今回のレース会場だった。
洗練された、大人びた空間。
ロビーには、商談中と思われるビジネスマンの姿が。
どこか、場違いな場所へ迷い込んでしまったかのような、気おくれを感じながら。
ふかふかな絨毯の上を歩く。
エレベータに乗り、目的の階層まで上がっていく。
「そろそろ、顔隠したほうがいいんじゃないですか、センパイ?」
新田に言われ、慌ててバッグから全頭マスクを取りだす。
マスクを外し、全頭マスクを被る。
ふっと、新田が笑う。
蔑みともとれる笑みに、自尊心がチクリと痛む。
エレベータが止まり、ドアが開く。
廊下を見渡すが、私たち以外、誰もいない。
少し歩いた先に、彼女はいた。
ソファにゆったりと腰を下ろした藤崎。
スマホから私たちに視線を移し、片手を上げる。
「よっ。待ってたよ」
新田がお辞儀をする。
畑川も、ぎこちなく片手を上げる。
藤崎の視線が、私へと移る。
どうしていいか分からず、思わず頭を下げる。
後輩にお辞儀をする先輩。
藤崎が、ニヤッと笑った。
舐められている。
軽んじられている。
藤崎に。
体が、カッと熱くなった。
悔しさと、それ以上の情けなさ。
後輩に見くびられているから、というのもある。
それ以上に、藤崎の、ご主人様としての資質を探している自分が、情けなかった。
無意識に想像してしまう。
私に馬乗りになる、藤崎の姿。
罵りながら、私の尻を叩く、藤崎の姿。
舐めた態度を取る後輩の前で跪き、這いつくばる、屈辱と興奮。
これまで、藤崎に脅威を感じたことは一度もなかった。
競技者としても、人としても、だ。
言い方は悪いかもしれないが、自分にとっては取るに足らない存在だった。
でも…
マゾヒストとしてのフィルター越しに見る彼女は、そうではなかった。
これまで、藤崎をそういう目で見たことがなかったからだろうか。
いや、違う。
明らかに彼女は変わった。
どこか、サディストとしての風格すら漂わせる藤崎。
その要因は、きっと…
『三井センパイ…いや、これからは章乃ちゃんって呼ぶね。いいでしょ?』
『これからご主人様が、ペットとしての立場をみっちりと教えてあげるから。よろしくね、章乃ちゃん?』
3度目のレースの後。
憧れの先輩から、ペットへと成り下がってしまった、憐れな同期。
藤崎にからかわれ、顔を真っ赤にしながら凄む三井の顔が浮かぶ。
この一か月、彼女は藤崎からどんな扱いを受けてきたのだろうか。
藤崎が変わったのだとしたら、間違いなく、そのきっかけは三井だ。
先輩を屈服させ、サディストとして成長していく藤崎。
後輩にプライドをへし折られ、屈辱とともに堕ちていく三井。
憧れだった先輩を養分として、高みへ登っていく藤崎と。
自尊心も、能力も、輝かしいはずの未来も、取り巻きのひとりに過ぎなかった後輩に吸われ、落ちぶれていく三井。
あまりにも対照的なふたり。
実際は、分からない。
今の三井がどうなっているのか。
分かりようがなかった。
この一週間、三井に会っていないのだ。
部活はおろか、大学にも来ていないようだった。
「ついてきて」
立ち上がり、歩き始める藤崎。
その後に続く、ふたり。
私も、慌てて後を追う。
藤崎が立ち止まったのは重厚な扉の前。
扉の横には研修室と書かれたプレート。
扉を開ける藤崎。
会釈をした新田が、部屋へと入っていく。
「へえ、いいところじゃないですか」
新田が部屋を見回しながら言う。
「でしょ?章乃ちゃんち、金持ちだからさ、使えるものは使ってあげようと思って」
名家の子女である三井章乃。
部屋の使用料は、彼女に出させたのか。
あるいは、この建物自体、彼女の親と関係のあるものなのか。
「ほら、麻友ちゃんと、そっちのキミも入りなよ」
「う、うん…」
藤崎に促され、室内へ入る畑川。
私も、その後へと続く。
藤崎の横を通り過ぎようとした時。
藤崎と目が合った。
こちらを見透かしたかのような目。
口もとに、笑みを浮かべている。
バレている?
いや、バレてはいないはず…
今日だって、この部屋に来る前から、全頭マスクを被ってきた。
服装でバレないよう、わざわざ服も、靴だって、新しく買ったのだ。
部活中も、藤崎とのやりとりで、なんら疑われているような気配もなかった。
大丈夫。
大丈夫なはず…
暴れ始める心臓を、なだめる。
「あれ?三井センパイは?まだ来てないんですか?」
「あぁ。章乃ちゃんなら、もう来てるよ。別室で待機させてるの」
待機させている、という言い方が引っかかった。
それは、他のふたりも同じだったらしい。
そんな私たちの反応が面白いのか、藤崎がイタズラっぽい笑みを浮かべる。
「連れてくるから、ここで待っててね」
こみ上がる楽しさを抑えきれないといった様子の藤崎。
そう言って、部屋の奥へと消えていく。
イスに座りながら、藤崎が来るのを待つ。
それにしても。
部屋を改めて見回す。
ざっと100人は入れるだろうか。
外のプレートには、研修室と書かれていたが…
机は全て部屋の端に寄せてあった。
がらんと空いたスペースに、イスが数脚。
そして、ポールのようなものが数本ずつ、各所に置かれている。
部屋の奥には、スクリーンが壁から下げられていた。
天井につり下げられたカメラのようなものは、もしかするとプロジェクターだろうか。
「お待たせー」
声のしたほうをふり向く。
部屋の奥。
乗馬服を着た藤崎の姿があった。
こちらに歩いてくる。
よく見ると、手にロープのようなものを持っていた。
なんだろう、と思った直後。
私は息をのんだ。
ロープの先につながったもの。
藤崎に続き、ゆっくりと近づいてくる。
2足で歩くことを禁じられているのか。
床に両手と両ひざをつきながら前へと進む、ジャージ姿の女性。
悔しいのか、それとも恥ずかしいのか。
その顔は、真っ赤に染まり…
藤崎にリードをひかれ、ただ前の一点を見つめながら、這い進む。
それはまるで、散歩をする飼い主とペットのようでもあり。
SMの女王様と、そのドレイのようでもあった。
いや、そのものではないか。
背徳的で、淫靡な世界。
見てはいけないものを見てしまったと思った。
でも、目が離せない。
床を這う彼女の感情が、自分に流れ込んでくるかのようだった。
首輪をつけ、リードを引かれながら這う、という屈辱。
リードを握っているのは、彼女にとっては取り巻きのひとりでしかなかったはずの女の子。
そしてその姿を、私たちに見られているという恥ずかしさ。
情けなさ、惨めさ。
でも…
おそらくは、それだけではない。
私には、分かる。
いや、私だけではない。
きっと、ここにいる全員が分かっている。
身を焦がすような羞恥心で顔を真っ赤にしつつも。
彼女は、受け入れたのだ。
藤崎から、ペットとして扱われること。
藤崎に、逆えないということ。
弱みを握られているとか、脅されているから、ではない。
自身がマゾであること。
藤崎から受ける屈辱的な扱いに憤りつつも、本心ではそれを求めていること。
前回のレースの時には残っていた威厳のようなものは、もう感じられない。
カースト上位に位置していた時の彼女にはもう戻れない。
彼女の表情を見れば分かる。
己がマゾヒストであることを認め、サディストに屈服したのだ。
悔しさも、惨めさも、恥ずかしさも、全て被虐的な刺激へと変換されてしまう。
それを、必死に隠そうとしている。
かつてのライバルに、そして、自分をこんな目にあわせた後輩に見られているから。
必死で、無駄な抵抗。
わずかに残った、かつて彼女だったものが、薄皮となって覆い隠している。
それも時間の問題だった。
いずれは彼女の威厳のように消えてしまう。
その時、彼女はマゾとしての顔を隠せなくなる。
たとえそれが、彼女の取り巻きたちの前であってもだ。
「ほら、章乃、みなさんに挨拶なさい」
私たちの目の前まで来た藤崎。
足もとにいる三井に促す。
恥ずかしいのか、三井の目が泳ぐ。
ただ、それでも。
ゆっくりと、前脚を上げる。
後ろ脚でつま先立ちになり、ひざを曲げる。
蹲踞のような姿勢で、前脚だけ、胸もとでそろえる。
そして。
「わ、わん…」
消え入りそうな声。
でも、確かに聞こえた。
「そんな小さな声じゃ、聞こえないでしょ?もう一回!」
藤崎の叱責。
三井。
目が合った。
が、すぐに顔を伏せてしまった。
あの、三井が。
先日までの誇り高い彼女は、どこにもいない。
「三井センパイ、なんです、それ?」
堪えきれないといった風に笑いながら、新田が問いかける。
問いには答えず、うなだれる三井。
「この子はもう、ヒトじゃなくてペットになったの。私の犬にね。だから返事も『ワン』だけ。そうだよね。章乃?」
「わ、わん」
「ちょっと、ちょっと、三井センパイ!どうしちゃったんですか?この間までのかっこいい三井センパイは、どこにいっちゃったの?」
新田のからかいにも、反抗のそぶりすら見せない。
「ねえ、新田。その子はもう三井センパイじゃないの。章乃ちゃんて、呼んであげて」
「章乃ちゃんねぇ…」
三井を眺めながら、つぶやく新田。
「あ、そうだ!」
何かを閃いたのか、三井の前でしゃがみ込む。
三井の顔を見つめながら…
「ねえ章乃ちゃん。私は章乃ちゃんのこと、アッキーって呼んでいい?」
三井章乃(あきの)。
名家の子女として生まれ、育てられてきた彼女。
部内でも多くの後輩たちに慕われ、私のライバルでもあった。
大学卒業後の将来も、約束されたようなものだった。
それが…
「わん…」
自信なさげに新田を見上げ、返事をする。
「やったぁ!」
無邪気に喜ぶ新田。
「アッキー、お手!」
新田が、右手を差し出す。
その手に、おずおずと、自身の右前脚を乗せるアッキー。
「おかわり!」
右前脚をおろし、左前脚をのせる。
「よくできました!エライぞ、アッキー!」
アッキーの頭を撫でる、新田。
もはや、完全に犬としての扱いだった。
彼女の両親が見たら、卒倒してしまうかもしれない。
大切に育ててきた娘が、まるで犬のように…
それも、中学生のような見た目の少女に、犬の芸までさせられているのだ。
あくまで、仕方なくやらされている、といった体の三井。
興奮しているのが、丸分かりだった。
「レースの前に、みんなに観てもらいたいものがあるの」
そう言って、藤崎が三井の前に何かを置いた。
リモコンだった。
「アッキー。キミがどんなふうにして今の姿になったのか、みんなに観てもらおうね?」
「わ、わん…」
「よかったね。これを観られるの、楽しみにしてたもんね?」
「わん…」
三井が、唇を噛む。
「じゃあ、リモコンのボタンを押しなさい」
藤崎に命じられた三井。
三井の右前脚が、リモコンへ伸びる。
葛藤があるのか、なかなか、ボタンを押さない三井。
出した前脚を引っこめたり、また出したりを繰り返す。
そんな様子を楽しそうに眺める新田。
しかし、藤崎は違った。
なかなかボタンを押さない三井に、苛立っていた。
「言われたことは、すぐにやる。センパイが私に教えてくれた言葉ですよ?」
三井が、上目遣いで藤崎を見る。
泣きそうな顔をしながら、うなずく。
「ご主人様に恥をかかせるんだ?ふぅん、そうなんだぁ」
藤崎のつぶやきに、何かを感じたのか。
三井は慌てて、リモコンのボタンを押した。
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